福音ラーニング(第1集)

【テーマ】

  1. 天地創造について
  2. 神について
  3. 聖書について
  4. 人間について
  5. 死の起源について
  6. 罪について

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※各テーマの文末に問題がありますので、本文を読んでから答えください。

[第1集][第2集][第3集][第4集]

1.天地創造について

 「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記一章一節)

 何事にも初めがあります。生命には誕生した瞬間がありますし、建物にも建築された時があります。製品ならば、製造された時があるはずです。私たちは、そのことを当然のこととして理解しています。
 そうであるなら、私たちの住んでいる地球や、広大な宇宙にも、「必ず初めがあったはずだ」とは思われないでしょうか。永遠の昔から存在していたのではないということは、だれもがうすうす感じていると思います。けれども、宇宙の始まりがいつで、どのようにできたかについては、いまだに明確なことがわからないのです。いろいろな研究者がいろいろな説を唱えますが、残念ながら、決定的なものがない状況です。人間のちっぽけな頭でこの先いくら考えても、それを解明することはむずかしいでしょう。

 はっきり言えることは、これらのものが偶然に存在することはあり得ない、ということです。家にしても製品にしても、それらのものが存在しているということは、それを作った人がいるということです。それらのものが偶然にできあがることはあり得ません。それが複雑なものであれば、なおさらです。では、この地球や宇宙はどうでしょうか。実に秩序正しくできています。地球は一定の速度で自転し、公転しています。太陽との距離も、生物が生きていくのにちょうどよい距離を保っています。こんなに精巧なものが、偶然にできあがったと考えられるでしょうか。

 地球の誕生は、今から約四十六億年前と言われています。では、四十六億年あれば、地球や宇宙は偶然にできあがるのでしょうか。そもそも、この四十六億という数字にも、明確な根拠はありません。あくまでも仮定に基づいた計算上の数字にすぎませんが、私たちは、この数字に、何となく納得させられてしまっているのです。
 人間が理解できる時間の感覚は、せいぜい百年から千年ぐらいです。その範囲の中なら、冷静な判断をすることができます。ですから、「この地球は、千年かかって、偶然にできあがった」と言われれば、おそらくだれも信じないでしょう。それはあり得ないと、常識的に判断できるからです。
 しかし、四十六億年となると、何となく、「そんなこともあるのかな」と思ってしまうのです。その数字は理解の範囲を超えているからです。何百円とか、何千円とかいうお金しかもらったことのない小学生が、いきなり何十億円もらえると言われても、ぴんと来ないのと同じです。いわば数字のマジックです。けれども、千年であろうと何十億年であろうと、あり得ないことは、あり得ないのです。
 ナチスの独裁者ヒトラーは、自著「わが闘争」の中で、大衆は小さなうそより、大きなうそにだまされやすい、というようなことを書きました。このことは、進化論にもぴったり当てはまると言えます。

 では、偶然にできたのでないなら、この地球と宇宙はどうやってできたのでしょうか。その明確な答えが、本章の冒頭のことばです。神がこの宇宙と地球を造られた――これが、人類がずっと考え続けてきたことに対しての、単純な答えなのです。
 頭のいい学者がたくさんいながら、なぜ、この単純な結論がほとんど受け入れられていないのでしょうか。それは、彼らが「神はいない」という前提の下に物ごとを考えているからです。神がおられるという選択肢を初めから除外し、そのうえで、結論を模索しているからです。彼らにとって、神の存在を認めることは、時代に逆行しているように思われ、何となく恥ずかしいことのように感じるのでしょう。そのような風潮は、十九世紀後半ごろ、進化論の誕生とともに起こりました。しかし、冷静に判断すれば、そのような考えこそ非論理的であり、非科学的だということがわかります。
 そもそも、この宇宙と地球が偶然にできあがるということは、確率的に皆無と言えるのです。多くの学者がその確率を無視して、さまざまな理論を構築しているのですから、非常にこっけいと言えます。偶然というものに、神と同等の力があるとみなしているのですから、もはや一種の信仰と言ってもよいでしょう。

 確かに、日本にも外国にも、神がこの世界を作ったという神話があります。そのような話は明らかに人間の創作ですから、それらの話を事実として受け入れることはナンセンスです。けれども、聖書に書かれていることは、それらの神話とはまったく違います。聖書という書物の信憑性と、イエス・キリストという信頼すべき方をとおして、はっきりとそのことが説明できるのです。聖書という本も、イエス・キリストという方も、調べれば調べるほど、単なる宗教の書物、また宗教家でないことがわかってくるからです。

次の問いに答えてください。

天地創造についての説明で間違っているものはどれですか?
聖書が語る天地創造についての説明で間違っているものはどれですか?

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2.神について

 「(神は)近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。」(テモテへの手紙第一・六章一六節)

 次のように言われる方がいます。
「もし神がいるなら、見せてほしい。」
 これはもっともな言い分です。「百聞は一見にしかず」というとおり、目で実際に確認することほど、確かなことはありません。多くの無神論者が「神はいない」と考えているのも、神が目に見えないことが大きな要因なのです。
 目に見えるということは、人間にとって大きな意味を持っています。ですから、宗教も、目に見えるもの、すなわち、ご神体とか、カリスマ性のある教祖とかいったものが必要になるのです。

 確かに、もし神がすべての人の前に現れたとしたら、神を信じない人はいなくなるでしょう。けれども神はそうなさいません。それには理由があるのです。私たち人間が神を見たら、必ず死ななければならないからです。
 神はこのように言われました。
「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」(出エジプト記三三章二〇節)。
 これは、神がモーセという人に対して語られたことばです。モーセと聞くと、「十戒」という、古いハリウッドの映画を思い起こす方もおられるかもしれません。彼は、歴史的にも非常に有名で、今から約三千五百年前に、エジプトで奴隷となっていたイスラエル民族を救い出した偉大な人物です。
 聖書によると、このモーセは、人間の中で唯一、神の後ろ姿を見ることを許された人でした。そして、神の栄光のほんのわずかな部分を垣間見たモーセの顔は、それからしばらくの間、光を放つようになったのです。彼の顔の肌が、神の栄光の輝きを受けて、それを反射するようになったからです(出エジプト記三四章参照)。神の後ろ姿をほんの少し見ただけで、人の顔にそんな変化が起こってしまうほど、神はまばゆい存在なのです。

 私たちは、真昼の太陽を肉眼で見ることができません。まぶしすぎるからです。まともに見たら、目を傷めてしまいます。神はその太陽をも造られた方なのですから、神が太陽よりはるかにまぶしく光り輝く方であったとしても、何の不思議もありません。
 また、私たちは、宇宙がどれぐらい広いか知りませんが、神はその宇宙をも造られた方なのです。ですから、神が宇宙より広大な方であることも、間違いのないことです。
 このように、神はちっぽけな人間の想像をはるかに超える方なのですから、この方をまともに見ようという発想自体が、実は愚かなことだ、ということがおわかりいただけると思います。

 また、神は私たちと違って、完全に聖い方です。それに対して、私たちは、心の中に悪いものが満ちている罪人です(本書の「罪について」を参照)。このような汚れた者が、罪を徹底的に嫌われる神と、まともに向き合うことができるでしょうか。
 もし私たちが神を見たら、即、死んでしまうとしても、それは当然のことです。神が私たちの前に姿を現さないのは、私たちが死なないようにという、神のあわれみなのです。

 実は、神は私たちにご自分の存在を示そうとされなかったわけではありません。白い砂浜に足跡がついていれば、あたりにだれもいなくても、そこに人がいたことがわかります。また、ある所に家が建っていれば、そこに大工がいなくても、その家を建てた人がいることがわかります。
 それと同じように、神は私たちの前にご自身を現されることはありませんが、ご自分の存在がわかるように、その足跡を残してくださったのです。その足跡とは、ご自分が造られた物、すなわち、私たち自身と、私たちを取り巻く自然界です。これら神の作品を見ると、そこに神の姿はなくとも、確かに神が存在されるということがわかります。
 また、この世に存在するものの中には、目に見えないものが数多くあります。空気は目に見えませんが、確かに存在します。電気も目に見えませんが、電気によって動いているものをとおして、その存在を確認することができます。「空気や電気は目に見えないから存在しない」と言う人がいたら、笑い者になってしまうでしょう。
 ですから、「目に見えないから神はいない」と言う人は、一見、現実的なように見えて、実は、最も非現実的なことを言っているのです。

 さらに神は、ご自身のことを、私たちにわかりやすく、もっと具体的に示してくださいました。それは、ご自分のひとり子イエス・キリストを、私たちと同じ人間の姿で、この地上に遣わされることによってです。目に見えない神が、目に見えるかたちで、人間の歴史の中に登場してくださったのです。このことについては、後ほど(本書の一一章から一四章で)じっくりと考えてみたいと思います。

次の問いに答えてください。

神を見ることができない理由として正しいものはどれですか?
人間はどうやって神の存在を知ることができるのか、正しく述べているのはどれですか?

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3.聖書について

 「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(テモテへの手紙第二・三章一六節)

 実際にお読みになったことがある方はおわかりでしょうが、聖書は必ずしも親しみやすい本ではありません。
 まず第一に、非常に分厚い本です。それだけで、読もうという意欲がうせてしまうかもしれません。けれども、そんなことではだめだと思い、とりあえず旧約聖書から読み始めたとしましょう。最初の「創世記」は、物語になっているので比較的読みやすいのですが、その次の「出エジプト記」の途中から、だんだんむずかしくなってきて、さらにその次の「レビ記」ともなると、ますますもって、わけがわからなくなることでしょう。
 そこで、気を取り直して、新約聖書から読むことにして、いちばん初めの「マタイの福音書」を開くと、冒頭からいきなり系図で始まり、まったくなじみのない人たちの名前が次々に出てきます。
 最後の「ヨハネの黙示録」は、名前はよく知られていますが、中身となると、何が書いてあるのか(特に、初めての方には)さっぱりわからないかもしれません。このような具合に、聖書は、読みやすいとは、お世辞にも言いがたいのです。

 けれども、不思議なことに、この非常に取っつきにくい聖書が、実は世界でいちばんよく読まれている本なのです。ある統計によると、聖書は、世界の言語の九十六パーセントにあたる千九百三十八の言語に翻訳されています。また、毎年四千万冊以上、売れているそうです。これは年間の話ですから、トータルでどれだけ読まれているかは、もはや統計が取れないほどです。ギネスブックには、最も多く売れた本、という箇所で、「聖書は除く」と記載されたことがあります。あまりにたくさんの人に読まれているので、対象から外すという意味です。聖書という本は特別扱いなのです。
 おもしろい本がよく読まれるというなら話はわかりますが、そうでない本がここまでよく読まれるということは、いったいどういうことなのでしょうか。

 一般に、宗教の本はよく売れる、と言われます。それは、その信者が買うからです。けれども、聖書の場合は、わりと値が張ることもあり(と言っても数千円ですが)、信者も、一冊買ってしまえば、続けて何冊も買うことはないでしょう。ですから、毎年それだけの冊数が出版されているということは、信者以外の人が、毎年、新たに手にして読んでいるということになるのではないでしょうか。
 聖書にあまり縁のなさそうなわが国においてさえ、(新約聖書だけというような)分冊を含めると、百万冊ぐらい出版されているそうです。
「聖書を知らなければ、欧米の文化と歴史は理解できない」と言われますので、向学のために読む方も、もちろんおられると思いますが、聖書という本に特別な「何か」があるので、これだけ多くの人に読み続けられるのではないでしょうか。その「何か」とはいったい何でしょう。ここで少し、聖書の(他の書物にない)特殊性について考えてみましょう。

 聖書は、全部で六十六巻の、大小の書物から成り立っています。執筆者も、執筆年代も、執筆背景も、それぞれまったく違います。そして、書き始めから完成までの間に、千五百年もの間隔があいています。それなのに、不思議と統一性があるのです。普通、それだけ違う書物が集められた場合、内容がちぐはぐになってもよさそうなのに、決してそうではありません。まるでだれかひとりの人が書いたようなのです。

 また、その中にはいろいろな預言書がありますが、それらの預言はことごとく成就しています。たとえば――高校の世界史で習うことですので、ご存じの方もおられると思いますが――紀元前七世紀から紀元一世紀初めにかけて、世界の文明の中心地であったオリエント・ヨーロッパ社会を支配していたのは、ペルシャ帝国、アレキサンダー大王、ローマ帝国といった国家や人物でした。それらの国の勃興、衰退を、聖書はすべて、前もって正確に預言していたのです(ダニエル書二章参照)。
 また、ユダヤ人は、紀元七〇年にローマ帝国によって自分の国を滅ぼされ、千九百年近くもの間、世界中に離散していました。そのユダヤ人が世の終わりにもう一度集められるという預言が、旧約聖書の至るところに記されています。それが、一九四八年、イスラエル国家が建設されることによって、(部分的ではありますが)実際に成就したのです(エゼキエル書三七章ほか参照)。

 そして、最も重要な預言は、私たちを罪から救うためにメシヤ(救い主)が遣わされ、この方が私たち罪人の身代わりとなって死ぬことでした。この預言は、紀元三〇年に、イエス・キリストが十字架にかかることによって完全に成就しましたが、実は、キリストが十字架で死なれる七百年以上も前に預言されていたことなのです。
 このことを日本に置き換えるなら、鎌倉時代の末期に語られた預言が、二十一世紀の今日、成就するという具合です。とてつもなくスケールの大きな話です。
 ある人たちは、この預言の内容がキリストの十字架の場面と酷似しているので、「キリストの十字架以降に、その出来事を知っている人によって書かれたのではないか」と疑ったそうです。けれどもこの説は、後に、間違いであることがわかりました。二十世紀中ごろに、死海付近の洞窟で、旧約聖書の古い写本が発見され、それが、紀元前、すなわちキリストの十字架以前に書かれたものであることが証明されたからです。これが死海写本と言われるものです。

 こうして過去の預言が驚くべき確率で成就したならば、これから未来に起こることも、必ず成就するはずです。世界は、聖書に記されているとおりに動いていると言っても過言ではありません。
 ですから、聖書は、単なる人間が書いた書物の範疇をはるかに越えています。このような書物を書くことができる存在がいるとしたら、それはただひとりです。この世界を創造し、歴史を動かすことのできるお方――すなわち神なのです。

 私たちは神を見ることができません。けれども神は、ご自分の意思を私たちに示そうとし、その手段の一つとして、最もわかりやすい、書物という方法をお用いになったのです。
 世界を造られた神が、もし仮に、書物をとおして、ご自分の意思を全人類に示そうとされるなら、その本は、特定の地域や時代に限定されるものであってはならないはずです。たとえば、日本ではよく読まれているが、海外ではまったく読まれていないという書物ではだめです。反対に、海外のある地域ではよく読まれているが、日本ではまったく読まれていないという場合も同様です。そして、昔はよく読まれていたが、今はあまり読まれていないということでもだめなのです。
(日本を含む)世界中で読まれていて、なおかつ、いつの時代であっても読み続けられる本――それが、神が人類にお与えになった書物としての条件です。そう考えてみますと、世の中にあまたの本はあれど、それに該当する本はたった一冊――聖書しかない、という結論に達するのです。

 聖書のように、お世辞にもおもしろいと言えない本が、世界のベストセラーであり続けるのは、神が記された書物だという証拠ではないでしょうか。
 私たちは人生の座右の書のことを「バイブル」と呼ぶことがありますが、正真正銘のバイブル、すなわち、実際の聖書を読み、神が私たちにいったいどのようなことを望んでおられるかを、ぜひ知っていただきたいと思います。

次の問いに答えてください。

聖書について正しく説明しているのはどれですか?
聖書が神のことばであることを説明するものとして正しいものはどれですか?

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4.人間について

 「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。」(創世記一章二七節)

 今日の学校では、(聖書の教えに反する)進化論に基づいた教育が行われています。進化論では、「生物は造物主によって創造されたのではなく、原初の単純な形態から、進化によって、次第に現在のかたちに変化した」と考えます。「単一のものから、すべての生物が生じた」というのですから、「サルと人間の先祖は同じである」、「どの生物も、元をたどれば、みな同じである」ということになってしまいます。人類みな兄弟ならぬ、生物みな兄弟といったところです。
 この自然観は、まことしやかに教えられているために、何の疑いも持たずに受け入れられていますが、学校で教えられていることが百パーセント正しいかというと、必ずしもそうではありません。特に科学の分野では、新しい発見があると、それまで教えられていたことがしばしば訂正されます。
 また、進化論を唱える学者たちの間にも(細部では)さまざまな意見の違いがあり、時代によって、主流となる考えが異なるありさまです。ですから、冷静に考えてみると、進化論には、いろいろと腑に落ちない点が出てくるのです。

 そもそも、サルと人間の先祖が同じだという根拠は、外見が似ているということです。確かにサルは、他の動物よりも人間に似ていますし、行動パターンもよく似ています。けれども、それはあくまで外見の話であって、中身については、両者には大きな違いがあります。

 たとえば、人間は死後の世界のことを考えますが、サルはそのようなことはしません。例をあげると、人間の社会では、発展途上の地であろうが、科学が発達した国であろうが、葬儀というものが行われていますが、サルが葬儀を行ったという話は聞いたこともありません。サルの場合は、仲間が死んでも、葬儀らしきものを行うことさえしません。けれども、人間の場合は、不思議なもので、地域、文化、歴史が違っても、葬儀が必ずと言っていいほど行われているのです。
 それはなぜでしょうか。一般の葬儀の目的には、故人の死を悲しみ、悼むことだけでなく、「死者の霊を慰める」ことも含まれます。ですから、人が葬儀を行うということは、どんな人も、無意識のうちに、「人間には死後の世界がある」ということを知っている証拠ではないでしょうか。「人間は肉体だけの存在ではない。人間には霊もたましいもある。そして、死んだらそれで終わりではないのだ」と知っているのではないでしょうか。
 
 また、どんな国や地域に行っても、そこには必ず宗教があります。この事実も、「人間には、潜在的に神を求める気持ちがある」ということを証明しています。「宗教はアヘンである」と言って、神を否定した社会主義思想は、(わずか七十年で崩壊したソ連を見ればわかるように)人間の社会には浸透しませんでした。科学万能と思われる今日でも、人間を超えた存在がいるという考えを否定することができないのです。
 このように、神の存在について考えるということは、人間特有のことです。そのような特質は、人間以外の動物には見いだすことができません。サルが何かを拝んでいる姿を見たことのある人はいないはずです。

 進化論では、そのような人間特有のことは、知能の発達の過程で自然に生まれたと考えます。しかし、自然に芽生えたのなら、そのようなことがまったく見られないケースがあってもよさそうなものです。けれども、いつの時代でも、どこの地域でも、同じ(人間特有の)習性が例外なく見られるのですから、やはり、人間と他の動物には根本的な違いがあるのではないでしょうか。

 聖書には、神が、さまざまな生物を、その種類にしたがってお造りになったことが、はっきり記されています。サルはサル、人間は人間というように、まったく別の生き物として造られたのです。そして、人間は神のかたち(似たもの)として創造されました。似たものとは、「共通の部分を持つ存在、つまり、互いに交わりをすることのできる存在」という意味です。すなわち、人間は、肉体だけでなく、(神と同じように)霊という特殊なものを持つ存在なのです。このような存在として造られたのは、あらゆる生き物の中で人間だけです。このことを理解すると、人間だけが持っている、他の動物にない特質について、十分な説明がつくのです。

次の問いに答えてください。

神が人間をお造りになったことについて、正しく説明するものはどれですか?
人間と動物の違いについての説明で間違っているものはどれですか?

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5.死の起源について

 「ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死 が全人類に広がったのと同様に……。」(ローマ人への手紙五章一二節)

 人間にとって最もつらいことは、「いつか必ず死ななければならない」ということではないでしょうか。生きとし生ける物は必ず死を迎えますが、いざ自分にその時が来ると、どんな人でも動揺するに違いありません。死ぬということは、だれにとっても未知の経験だからです。
 死という問題を身近に感じるようになると、「なぜ人は死ななければならないのか」という疑問が、当然わいてくることでしょう。しかし、この疑問にきちんと答えることのできる人は、おそらく、ほとんどいないはずです。
「なぜ、いのちあるものは年を取るのか」
「なぜ、病気のようなものがあるのか」
 これらの根本的な原因は、今日の医学でも解明されていないからです。
 ところが、聖書はこのような疑問に対して、はっきりと回答を示しているのです。

 旧約聖書の「創世記」には、人類の先祖であるアダムとその妻エバの話が出てきますが、皆さんはその話をご存じでしょうか。彼らが、「取って食べたら必ず死ぬ」と神から言われた木の実を、悪魔にそそのかされて食べてしまった、という話です。アダムとエバが木の実を食べたそのとき、神は彼らに対して、こう仰せられました。
「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。……あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない」(創世記三章一九節)。
「土に帰る」、「ちりに帰る」とは、死ぬということです。聖書によると、アダムとエバが神の命令にそむいて、食べてはならない木の実を食べたそのとき、人間に「死ぬこと」が定められたのです。
 ――ちなみに、この実を「りんご」と思っておられる方もいますが、これは、後世の人が考えた脚色です。聖書には、「善悪の知識の木(の実)」と書いてあるだけです。――

 この話を聞くと、多くの方が、「これはただの神話だ」とお考えになることでしょう。木の実を一個食べただけで死に定められてしまうなんて、非現実的なことに思えてしまうかもしれません。けれども、この出来事は、人類に罪が入る以前、すなわち、神と直接交わることができた時代のことですから、現在とは環境も大きく異なります。私たちは、人類の歴史のほんの一部分しか経験していないのですから、有史以前の出来事を、現代人としての感覚だけで判断してはいけないのです。
 そのうえ、この出来事は、神の書物である聖書が語っている出来事です。聖書に書いてあることは、決して支離滅裂なことではなく、むしろ、きちんと筋が通っており、私たちのいろいろな疑問に対して、その答えをはっきりと示しているのです。
 それに反して、進化論には、非常にあいまいなところがたくさんあります。人間はなぜ罪を犯すようになったのか、また、いのちあるものはなぜ死んでいくのか、といったことについて、十分に説明することができません。進化論は人間の知恵によって生み出されたものですから、おのずと限界があるのです。しかし、聖書に書いてあることは、宇宙と地球を創造された神が私たちに示されたことですから、「人間がどれだけかかっても、知ることができないこと」も示すことができるのです。

 聖書によると、最初の人アダムが罪を犯してしまった結果、その子孫にも罪の性質が受け継がれ、その性質は、現代の私たちに至るまで、脈々と受け継がれています。アダム以来、すべての人間が罪の性質を持っており、それは、たとえ小さな子どもであったとしても、例外ではありません。ですから子どもは、だれに教えられたわけでもないのに悪いことをしてしまうのです。
 また、私たち人間の死は、創造主である神が、罪に対するさばきとしてお与えになったものですから、その原因を医学的に解明することは不可能なことでしょう。それに、もし解明できたとしても、「死」は神によって定められたのですから、私たちがそれを逃れることは絶対にできません。

 ですから、私たちが今しなければならないことは、「なぜ人は死ななければならないのか」ということについて考え、その原因が罪であることを理解し、「どうしたら罪の問題を解決できるのか」について真剣に考えることです。悟りを開いたところで、あるいは、「人はいつか死ぬものだ」と割り切ったところで、何の解決にもなりません。

次の問いに答えてください。

次のうち、死について正しく説明しているものはどれですか?
死の原因について説明するもので間違っているのはどれですか?

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6.罪について

 「罪とは律法に逆らうことなのです。」(ヨハネの手紙第一・三章四節)

「罪」ということばを聞くと、たいていの人は、法律に違反する行為を連想されるのではないでしょうか。あるいは、「法に触れないまでも、人に対して何かひどいことをすることだ」とお考えになるのではないでしょうか。ですから、前科がある人か、何か良心に責められることのある人でなければ、「あなたは罪人です」と言われても、ぴんと来ないことでしょう。
 ところが、聖書を読むと、罪というもののイメージがまったく違うものになります。罪になるかどうかが、(法律や道徳によってではなく)神の基準によって判断されるからです。神の基準は、私たちが考えているよりもはるかに高いので、人間の基準では罪にならないことが、神の基準では罪になることがたくさんあります。

 その神の基準が具体的なかたちで私たちに示されたのが、旧約聖書に記されている「律法」というものです。律法は、今から三千五百年ほど前に、神が人間にお与えになったものです。律法には非常にたくさんの戒めが収められていますが、その代表的なものが「十戒」で、その最初の戒めは次のようなものです。
「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(出エジプト記二〇章三節)。

 私たち日本人の多くは、まずこの点で、すでに違反していることになります。日本人は古来、木や石で作ったさまざまな物を神として拝んできたからです。残念ながら、それらは本当の神ではありません。それらを拝んでいる人でさえ、そのことにうすうす気づいておられるのではないでしょうか。
 けれども、日本人は、いろいろな宗教に対して寛容な面や無頓着な面がありますから、どのような神を信じていようが、あまり気にならないのです。日本古来の宗教は神道ですが、六世紀に仏教が入ってくると、(最初は衝突もありましたが)やがてうまく共存するようになりました。ですから、家に仏壇がありながら、車には神社のお守りが貼ってある、といったことも、私たちの周りにはよくあるのです。
 そのような、ある種のいい加減さも「日本人の長所だ」と考える人もいるようです。けれども、「いろいろな神がいてもよい」と考えることは、「神とは、単なる想像の産物であり、人間の都合のために存在しているにすぎない」と考えることでもあります。

 もし神が実在しないのなら、そして、信じた人間の心を豊かにしてくれるだけの存在なら、そのような態度であっても、問題はないかもしれません。
 しかし、もし本当に神がおられるなら、そういうわけにはいきません。ほかのものを神とすることは、本当の神に対して、たいへん失礼なことです。もし、子どもが親を無視して、赤の他人に「おとうさん」、「おかあさん」と呼びかけ、その人について行ったとしたら、親は、どのような気持ちがするでしょうか。
 私たち人間は神によって創造されました。私たちが住んでいるこの世界は、私たち人間が住むための条件や環境がすべて整っています。空気、水、太陽――これらのものは、すべて神が私たちのために備えてくださったものです。人間の力では、どれ一つ作り出すことはできません。私たちは自分の力で生きているのではなく、神によって生かされているのです。
 けれども、私たちを生かしていてくださる神を無視して、ほかの神を拝んだり、「神なんていない」と言っていたりしたら、それは、本当の神に対して、とても不遜な態度を取っていることになります。
 
 では、欧米の国々のような、いわゆるキリスト教国に生まれた人々はどうでしょうか。確かに、彼らは、私たち日本人とは違って、まことの神以外のものを拝んだりすることはないかもしれません。けれども、単にそれだけの理由で、特別な扱いを受けるのでしょうか。決してそのようなことはありません。
 律法のすべてを守ったとしても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となります(ヤコブの手紙二章一〇節参照)。ですから、神以外のものを拝んだことがなくても、ほかの戒めを守ることができなかったら、神の前では罪を犯したことになるのです。

 十戒の中には、「殺してはならない」(出エジプト二○章一三節)という戒めもあります。多くの人は、これを聞いて、「今まで人を殺したことはない」とおっしゃるかもしれません。しかし、聖書は、「兄弟を憎む者はみな、人殺しです」(ヨハネの手紙第一・三章一五節)と語っています。つまり、人を憎いと思っただけで、殺人と同じ罪を犯したことになるのです。
 また、「姦淫してはならない」(出エジプト二○章一四節)という戒めもあります。これも、別の箇所では、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイ五章二八節)と語られています。この基準からすれば、ほとんどすべての人が姦淫を犯したことになるでしょう。

 そして、「すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない」(出エジプト二○章一七節)という戒めもあります。人のものをうらやましがることさえ、罪となるのです。そもそも、人のものを欲しいという気持ちがあるからこそ、その気持ちが高じて、窃盗、詐欺、横領といった犯罪が起こるのです。人の心にあるものが、行動となって表れるのです。法律は行動に表れたことしかさばくことができませんが、神は心の中までご覧になります。
 ――ちなみに、この「兄弟」とか「隣人」といったことばは、自分以外のすべての人と理解すべきです。――

 そして、これらの戒めは一つの戒めに要約できます。それは、
「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ記一九章一八節)という戒めです。
 もし私たちがみな、自分と同じように他人を愛することができたら、世の中から、戦争や犯罪はいっさいなくなることでしょう。
「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします」(ローマ人への手紙一三章一〇節)とあるとおりです。

 しかし、残念ながら私たちには、この戒めを完全に守ることはできません。だれにでも、他人より自分を愛する気持ちがあるからです。私たちは、「自分が大事」、「自分が一番」なのです。しかし、そのような気持ちこそ、罪の本質とも言うべきもので、それはエゴとも呼ばれています。すべての戦争や犯罪は、他人よりも自分を愛する気持ちが原因となって起こるのです。
 ですから、私たちが人を愛する愛も自己中心的なものです。その人に何らかの魅力があるから、あるいは、その人が自分に何らかの益をもたらすから、愛するのです。何の魅力もない人や、何の益にもならない人を、心の底から愛することができるでしょうか。まず無理でしょう。私たちのうちに完全な愛はないからです。

 このように、律法を全部守ることのできる人は、この世にはひとりもいません。私たちはみな、神から見れば、生まれながらの罪人なのです。
 実は、神が人間に律法をお与えになったのは、それらを完全に守らせるためではありませんでした。むしろ、神の基準を知ることによって、私たち自身が、不完全でみじめであわれな罪人であることを知るためだったのです。
 しかし、自分が罪人であることを知ることは幸いなことです。神に近づく大きな一歩となるからです。

次の問いに答えてください。

聖書が語る人間の罪について正しく述べているのはどれですか?
神以外のものを拝む行為(偶像礼拝)が罪であることについて正しく説明しているのはどれですか?

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