福音ラーニング(第3集)

【テーマ】

  1. キリストの降誕について
  2. キリストの生涯について
  3. キリストの十字架について(1)
  4. キリストの十字架について(2)
  5. キリストの復活について
  6. キリストの昇天と再臨について

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※各テーマの文末に問題がありますので、本文を読んでから答えください。

[第1集][第2集][第3集][第4集]

1.キリストの降誕について

 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは 考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」(ピリピ人への手紙二章六節)

「クリスマス」というお祭りのことは、世界中どこでも知られています。日本の場合は、クリスチャンがとても少ないのに、盛大にこの日を祝っています。けれども、なぜ十二月二十五日に行われるのかを正確に理解している方は、ほとんどおられないようです。
「この日がキリストの誕生日だから」と思っている方は大勢おられます。しかし、キリストが何月何日にお生まれになったのかは、正確にはわかっていません。
 ただ、その日が十二月二十五日でないことは確かなようです。なぜなら、キリストがお生まれになったとき、羊飼いたちが野宿をしていたことが聖書に記されており(ルカの福音書二章八節)、したがって、キリストがお生まれになったのは冬ではない、ということになるからです。ですから、クリスマスは、キリストの誕生日ではなく、キリストがお生まれになった出来事を祝う日、というのが正しいのです。

 誕生日でもないのに、どうして十二月二十五日が選ばれたかというと、(当時のローマ帝国で根づいていた)太陽神への信仰と深い関係があります。
 この日はちょうど冬至の時期と重なり、この時期を境に日がだんだん長くなることから、当時の人々は、この日を太陽神の誕生日として祝っていました。ところが、キリスト教が国教となってからも、その思想が人々の間に浸透していたため、それを廃止することができず、そのため、別の名目にすることによって、その祭りの存続を図ったのです。「太陽神の誕生」の代替として選ばれたのが、「キリストの降誕」というわけです。
 ですから、クリスマスは、もともとキリストのために設けられた日ではありません。それに、聖書には、キリストの降誕を祝いなさい、とは書いてありませんから、聖書から見れば、十二月二十五日は決して重要な日とは言えません。
 もちろん、キリストが人としてお生まれになったこと自体は、たいへんすばらしいことです。それに、その誕生を祝うクリスマスが、多くの人たちにとって、キリストのことを知るきっかけとなってきたことも確かです。

 このクリスマスを例に引くまでもなく、神が人となられて、この地上においでくださったことは、実に驚くべき出来事です。神は、この宇宙を支配しておられる方ですが、その方が、(宇宙全体から見れば)ちっぽけなこの地球の上の、さらにちっぽけな人間の姿となられたのですから、そのギャップは計り知れないものです。
 神は、宇宙を支配しておられると同時に、小宇宙と言われる人間の体内の細部にまでも、目を行き届かせておられます。まさに、無限大からミクロの世界まで支配しておられる方なのです。ですから神は、宇宙より広大な存在であったとしても、ちっぽけな人間の姿をとってこの地上にお生まれになることも可能なのです。

 それはまるで、宮殿に住んでいた人が、ある日突然、四畳半一間のアパートに引っ越すようなものです。あるいは、ロールスロイスに乗っていた人が、軽自動車に乗り換えるようなものです。いや、このようなお粗末なたとえでは表現できないほどの違いを、キリストは経験されたのです。

 自分の生活水準を落とすことは、だれにとっても、かなりむずかしいことです。そうしなければならない状況に追い込まれた場合は別ですが、みずからの意思では、なかなかできないことです。
 たとえば、一国の王子が自分の地位や生活を捨てて、下層階級の人とまったく同じように生活し始めたら、どうでしょうか。しかも、国民のために汗を流して労苦することを(強いられてではなく)みずからの意思で選択したとしたら、何と立派な王子だろうと思うのではないでしょうか。

 けれども、キリストはそれ以上のことをしてくださったのです。キリストは、一国の王子どころか、神の御子です。その方が、栄光ある神のあり方を捨てて、私たち人間と同じ姿をとり、罪人だらけのこの世界に来てくださったのです。しかも、王様のように、人にかしずかれる生活を送られたのではなく、他の人々のためにしもべとなって働かれたのです。
 そのうえ、キリストは、(王族や大富豪ではなく)貧しい大工の家庭にお生まれになりました。しかも、家畜小屋でお生まれになったのです。

 なぜキリストはそこまで身を落とさなければならなかったのでしょう。それはまさに私たちのためでした。キリストがこの地上に来られたのは、私たち人間に仕えるためでした。そればかりか、私たちのためにご自分のいのちを捨ててくださるためだったのです。
 キリストが人間となられた最大の理由は、私たち罪人の身代わりとなって死んでくださるためでした。聖書によれば、神はただひとり死ぬことのない方です(テモテへの手紙第一・六章一六節)。ですから、神の御子キリストも、本来の状態であったら、死ぬことはおできになりません。けれども、わざわざ死を経験してくださるために、人間のからだを持って、この地上に生まれてくださったのです。それは、私たちが、この方の死によって、罪を赦され、天国へ行くことができるようになるためでした。
 ですから、キリストが人となって降誕されたことは確かにすばらしいことですが、この方が私たちの罪のために十字架で死なれたことは、それよりもさらにすばらしいことなのです。

次の問いに答えてください。

キリストの降臨について正しく述べているのはどれですか?
キリストの降誕の目的はなんですか?

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2.キリストの生涯について

 「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず……。」(ペテロの手紙第一・二章二二、二三節)

 不思議なことに、イエス・キリストに関しては、聖書以外にはほとんど記録が残っていません。一般に、キリストの伝記や研究書は、すべて聖書がもとになっています。ですから、キリストについて正確に知ろうと思えば、聖書を読むのがいちばん確かな方法と言えます。
 聖書の中で、キリストご自身について記されているのが、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書です。福音書には、キリストが語られたことと行われたことが中心に記されています。ですから、これらの福音書を読むと、キリストがどういう生涯を送られたかがよくわかります。
 
 冒頭のみことばは、キリストの十二弟子のひとり、ペテロという人が記したものです。ペテロは、弟子たちの中でも、キリストに最も近い存在でした。弟子というのは、師に近ければ近いほど、その師の良いところ、悪いところが見えてくるものです。今日でも、芸能人や政治家、財界人といった有名人の暴露本が出版されることがありますが、そういうものを書く人は、たいていの場合、付き人や秘書、直属の部下など、非常に身近にいる人たちです。もちろん、そういう人たちが暴露したことが必ずしも事実とはかぎりませんが、四六時中いっしょにいると、遠くで見ている人にはわからないことも、いろいろとわかることは確かです。
 このペテロは、約三年間、キリストと寝食をともにしました。ですから、もしキリストに何か欠点があれば、いくらでもそれに気づくことができました。けれども、そのペテロが、キリストは罪を犯したことがなかったと、はっきり記しているのです。彼はずっとキリストに付き添っていて、悪いところをまったく見いだすことができなかったのです。

「身近な弟子だからこそ、師を美化して書いたのでは」と考える人もいるかもしれません。けれども、ペテロの場合、そうすることには何のメリットもありませんでした。当時の大々的な迫害の中、キリストを美化したり、神格化したりすることは、ローマ帝国の反感を買い、自分の身を危うくするだけでした。あえてそのようなことをして、自分を窮地に追い込む必要があるでしょうか。
 反対に、これらのことがみな真実だからこそ、いかに危険な状況に追い込まれようとも、ありのままを伝えざるを得なかったと考えるべきでしょう。

 このペテロのあかしによると、キリストはまず、うそさえついたことがないというのです。
 ある所で、うそつきコンテストというものが行われたそうです。その時、優勝した人がどんなうそをついたかというと、「私は、生まれてから一度もうそをついたことがありません」といううそだったそうです。妙に納得できる話ではないでしょうか。
 私たちはだれもが罪の性質を持っているので、程度に差はあったとしても、うそをつかない人など、この世にひとりもいません。詐欺のように積極的に人をだますようなことはなくても、自分の立場を守るために、やむをえず小さなうそをつくようなことなら、だれもが経験しているのではないでしょうか。
 けれども、キリストは違います。その口に何の偽りも見いだされなかったのです。まず、この点において、私たちとまったく違うのです。

 また、キリストは、ご自分がどんなにばかにされたり、危害を加えられたりしても、相手に報復するようなことはなさいませんでした。このような点も、私たちとはまったく違います。キリストは、
「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(マタイの福音書五章三九節)
 と教えられましたが、そのとおりのことを、みずから実践されたのです。
 キリストには、悪い人々に対抗するだけの力がなかったのでしょうか。決してそのようなことはありません。天使たちを呼び寄せて、またたく間にそのような人々を蹴散らすこともできたのです(マタイの福音書二六章五三節参照)。けれども、あえてそのようなことはなさいませんでした。抵抗する力が自分自身になくて、無抵抗となることは、決してむずかしいことではありません。けれども、相手よりも力を持っているにもかかわらず、無抵抗に徹することは、容易にできることではないのです。
 ましてやキリストは、求められていないものまで与えようとされました。キリストは
「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒の働き二〇章三五節)
 と言われましたが、ご自身が、その教えとまったく同じ生き方をされたのです。

 キリストがそうされたのは、自分よりも他の人々を愛することがおできになったからです。人はだれでも、自分のことがいちばん大事です。もし自分の自尊心が傷つけられるようなことがあれば、非常に憤りを覚えます。また、自分自身の権利のためには、必死で闘います。けれども、キリストは、そのようないっさいの自己を放棄されました。自分が何かしてもらうことではなく、他の人に対して何ができるかを、常に考えて行動されました。そして、自分が不利益を被ることがあっても、それで他の人が益を受けるなら、そのことをためらわず実践されたのです。

 キリストは数々の奇跡を行われましたが、その奇跡にしても、何一つご自分のためには行われませんでした。あくまでも人々のために行われたのです。私たちなら、もし奇跡を行う特別な力が与えられたら、まず自分自身のためにそれを用いるのではないでしょうか。たとえ他人のために用いたとしても、それを自己宣伝や金儲けのために利用しようとするのではないでしょうか。
 キリストは、五千人以上の群衆がお腹をすかしていたとき、五つのパンと二匹の魚を増やして、全員の空腹を十二分に満たされました(マタイの福音書一四章一三-二一節)。しかし、ご自分が空腹のときは、石ころをパンに変えることができたのにもかかわらず、そうなさいませんでした(同四章一-四節)。また、キリストは、ご自分が行われた奇跡については、だれに対してもいっさい見返りを求めず、それらの奇跡を宣伝しようともされませんでした。

 このように、キリストは自分というものを完全に捨ててくださり、この地上で奴隷のようになって人々に尽くしてくださいました。そのうえ、この世から見放されているような人々にも心を留めて、彼らの救いのためにも犠牲を惜しまれませんでした。キリストは損得勘定をいっさい抜きにして、ご自分を必要としている人々のために必死で労されました。そして、ご生涯の最後に、あの十字架にみずからかかってくださり、私たち罪人の身代わりとなって、ご自分のいのちさえ捨ててくださったのです。他人のためにここまで自分を犠牲にした人が、はたしてほかに存在するでしょうか。決していないと断言することができます。

 福音書を読むと、キリストがどれほどすばらしい方であるかが、よくわかってきます。キリストの生涯について知れば知るほど、この方が私たち罪人とまったく違うことがわかってきます。私たちは自分の利害や損得を考えに入れながら人を愛しますが、キリストは、何の見返りも求めない完全な愛、まさに神の愛そのものを人々に示されたのです。この方が神の御子であるということは、罪がなく、完全な愛を持っておられることからも、おわかりになるでしょう。

次の問いに答えてください。

キリストの生涯について知ることのできる方法について説明しているのはどれですか?
キリストと生活をともにしたペテロが、この方について語った私たちにとってとても重要な真実は何ですか?

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3.キリストの十字架について(1)

「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。」(テモテへの手紙第一・二章六節)

 イエス・キリストほど有名な死に方をした人は、ほかにいないと思います。たとえば、仏陀(釈迦)やマホメットがどのように死んだかを知っている人は、非常に少ないのではないでしょうか(ちなみに、仏陀は老衰、マホメットは病死です)。 
 普通なら、「どういう死に方をしたか」ではなく、「生前どのようなことを行ったか」がクローズアップされるものです。けれども、キリストが何をしたかを詳しく知らない人はいても、十字架にかかって死なれたことを知らない人は、ほとんどいないことでしょう。キリストの死は、なぜこれほどまでに有名なのでしょうか。

 その理由の一つは、多くのクリスチャンが十字架をシンボルにしてきたことでしょう。けれども十字架は、当時、最も悪いことを行った者がかけられたもので、そもそも死刑の道具なのです。普通に考えれば、非常に不吉なものです。たとえば、わが国では絞首刑で死刑が執り行われますが、首吊りをシンボルにしてそれを掲げたとしたら、とても気味悪がられることでしょう。十字架にも同じことが言えるはずですが、そのように感じられないのは、キリストの十字架の死に何か特別な意味があるからではないでしょうか。

 キリストが死なれたのは、「その教えや言動が当時のユダヤ教と相容れず、そのため、宗教的な指導者たちの反感を買い、彼らの陰謀によって十字架につけられた」というように一般的には理解されています。確かにそのとおりですが、それはあくまでも表面的な理由であり、実際の理由は、もっと深いものなのです。
 もし、一般に理解されている理由だけなら、キリストは当時の権力者より弱かったために殺された、ということになります。また、キリストは、社会の流れに逆らって死んだ、ただの殉教者にすぎないということにもなります。
 けれども、聖書を読むと、キリストの十字架という出来事は、単に人間の手によってなされたものでないことがわかってきます。それは、前々から神によって予定されていたことであり、神のご計画の一環として実現したことなのです。
 なぜそのようなことがわかるかと言えば、旧約聖書の中に、キリストの死に関する預言がはっきりと記されており(詩篇二二篇、イザヤ書五三章など)、キリストご自身も、ご自分の十字架の死を、前もって何回となく予告されたからです(マタイの福音書二〇章一九節など)。キリストにとって、十字架にかけられることは、予期せぬ出来事ではなく、むしろ初めから覚悟しておられたことだったのです。
 ですから、キリストの死は、成り行きで起こったことではなく、むしろこのことこそが、キリストが地上においでになった最大の目的だったのです。
 このように書くと、キリストは、まるで死ぬために生まれて来たように聞こえますが、実際にそのとおりだったのです。もちろん、良い教えを説いたり、奇跡を行って、困っている人を助けたりすることも、この世に来られた目的の一つでしたが、最大の目的は、やはり何と言っても、十字架にかかって死ぬことだったのです。

 実は、キリストの死にどのような意味があるかを知ることは、聖書を理解するうえで最も重要なことです。冒頭のみことばにあるように、キリストの死は私たち罪人を贖うためであり、そのためにキリストは、どうしても死ななければならなかったのです。「贖う」ということばは、あまり聞きなれないことばかもしれません。もともとの意味は、売られてしまった奴隷を、代価を払って買い戻すことです。けれども、そこから転じて、犠牲を払って何かを償うことにも用いられるようになりました。
 今日は奴隷制度というものはありませんが、私たちはまるで罪の奴隷のような者です。私たちは、悪いことだとわかっていても、ついそれをしてしまったり、反対に、これは善いことだからしなければいけないとわかっていても、それができなかったりします。それは、私たちが、自分のうちにある罪の性質に縛られているからです。そして、そのまま知らず知らずのうちに、永遠の滅びに向かって進んでいるのです。そのような私たちのために、キリストはご自分のいのちという最高の代価を払って、私たちを神のもとに買い戻そうとしてくださったのです。

 十字架にかかる前に、キリストは弟子たちにこのように言われました。
「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(ヨハネの福音書一二章二四節)。
 キリストはご自分を「一粒の麦」にたとえたうえで、ご自分が犠牲にならなければ、多くの人が救われないことを説明されました。もしキリストが死なれなければ、私たちはみな永遠のさばきを受けなければなりません。けれども、キリストおひとりが私たちの身代わりとなって死んでくださったことによって、罪の問題がすべて解決され、(信じるならば)どの人も救いにあずかることができるようになったのです。キリストはご自分の死の重要性をよくご存じだったからこそ、みずから十字架へ向かうことがおできになったのです。

次の問いに答えてください。

キリストの十字架について正しく説明しているものはどれですか?
キリストの十字架の目的について間違っているのはどれですか?

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4.キリストの十字架について(2)

 「神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(使徒の働き二章三六節)

 キリストは、他人によって、やむをえず十字架につけられたのではありません。みずからの意思で十字架へと進まれたのです。その証拠に、キリストは、ユダヤ人の陰謀によって捕らえられたときも、不正な裁判にかけられたときも、いっさい抵抗されませんでした。それができなかったからではありません。自分が正しいことは、いくらでも証明することができたのです。けれども、そのようなことはいっさいなさらず、私たちのために、あえて不当な扱いを甘んじて受けてくださったのです。
 それは、ご自分が十字架にかかることが父なる神のみこころであると、はっきり確信しておられたからであり、また、私たち人間を罪から救い出すことがいかに大切な使命であるかを、よく自覚しておられたからです。だからこそ、いかなる侮辱や苦痛を受けようとも、黙々と十字架へ進んで行かれたのです。
 
 けれども、十字架にかけられるということは、キリストにとってたいへんおつらいことでした。まず、十字架にかかる前に、背中が畑の畝のようになるほど鞭打たれるのです。次に、自分がはりつけられることになる重い十字架を刑場まで背負わされ、刑場に着けば、今度は素っ裸にされ、その十字架に両手両足を釘づけにされ、さらし者にされるのです。そして、死ぬまでの間、何時間も、あるいは何日もの間、痛みと苦しみに、もがき苦しまなければならないのです。考えただけでもぞっとします。
 この十字架刑は、あまりに残酷なために、やがて廃止となりました。人類史上最も残酷な死刑の方法が、キリストが来られた時期にちょうど実施されており、実際にキリストがその方法によっていのちを落とされたということも、決して偶然ではありません。これは、神が私たちの罪をすべて清算するために、キリストに対して、最も残酷な方法を用意されたということではないでしょうか。
 しかも、キリストは、十字架の上ではまったくの孤独でした。ご自分が親身になって面倒を見てきた弟子たちは、恐ろしくなって、みなキリストを見捨てて逃げてしまいました。
 ――ユダという弟子は、わずかな金に目がくらみ、キリストを裏切りました。また、ペテロという弟子は、キリストが捕らえられ、自分の身に危険が及ぶと、キリストの弟子であることを否定し、「そんな人は知らない」と言いました。――
 そして、周りは、ご自分をののしる者たちでいっぱいだったのです。

 しかし、キリストにとって最もおつらいことは、肉体の苦しみを受けることでも、侮辱を受けることでも、人に裏切られることでもなく、最も愛する方、父なる神から捨てられて、この方から罪のさばきを受けなければならないことでした。
 キリストは、何よりも罪をお嫌いになりました。そのような方が、その罪を実際に身に負い、ひとりの罪人としてさばかれなければならなかったのです。しかも、自分をさばく相手は、最も愛する方、父なる神だったのです。

 父なる神とキリストとは、永遠の昔から、深い愛の関係で結ばれていました。キリストの公の生涯で、父なる神はキリストのことを、
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」
 と二度も証しされました(マタイの福音書三章一七節、一七章五節)。そして、キリストも父なる神のことを
「私と父とは一つです」(ヨハネの福音書一〇章三〇節)
 と言われ、常にこの方のみこころを求めて、それを実行することを喜ばれたのです。
 けれども、そのような幸いな両者の関係が、十字架の上では真っ二つに引き裂かれてしまいました。昼の十二時から三時までは、全地が真っ暗になり、父なる神と御子イエスは、「さばき主」と「さばかれる罪人」とに、はっきりと分かれたのです。そこには、かつての愛の交わりはありませんでした。全人類の罪を一身に背負われたキリストと、その上に下る、神の容赦のないさばきだけが存在したのです。
 そうした中で、キリストは神に対して、
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイの福音書二七章四六節)
 と悲痛な叫びを上げなければなりませんでした。もはや、父と呼ぶことさえ許されなかったのです。この世の中で、愛する者と引き離されることほど悲しいことはありません。また、愛する者からひどい仕打ちを受けることも、耐えがたいほどつらいことです。キリストにとっては、父なる神からさばかれることで、まさにその両方が一挙にのしかかったのです。
 しかも、自分をののしり、あざけり、苦しめてきた人々の罪のために、その苦しみを味わわなければならなかったのですから、キリストは、何という残酷な仕打ちを受けなければならなかったのでしょうか。

 そのつらさは、キリストが十字架にかかられる直前、ゲツセマネと言われる園で神に向かって祈られたときの様子でよくわかります。その祈りの内容はこうでした。
「父よ。みこころならば、この杯(十字架の死)をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカの福音書二二章四二節)
 キリストは、その生涯の中で、ただの一度でさえ、ご自分の願いを神に対してされることはありませんでした。けれども、最後の最後に、たった一つだけ、神に対してご自分の願いをされたのです。それがこの祈りでした。十字架にかかるということは、キリストにとって、それほど悲しく、つらいことだったのです。
 実際に、キリストはこの祈りをされたとき、汗を血のように流されるほど苦しまれました。しかし、そのような苦悩の中でも、キリストは神のみこころを最優先されました。そして、ご自分がどうしても十字架にかからなければならないことが示されたとき、十字架へと進むことを、ためらうことなく決心してくださったのです。父なる神への従順と、私たちに対する愛とが、この方にその決意をさせたのです。そして、翌日には、あの十字架にかけられ、その十字架の上で六時間もの間、苦しみ抜かれた後、息を引き取られたのです。私たちは、この世でいろいろな苦しみや悲しみを経験しますが、イエス・キリストほどの苦しみ、悲しみを経験した人は、ほかにだれもいないと断言することができます。

 では、いったいだれのせいで、キリストはこれほどの苦しみ、悲しみを味わわなければならなかったのでしょうか。キリストを十字架につけることを画策した、当時のユダヤ人の指導者たちのせいでしょうか。それとも、十字架につけることを許可した裁判官のせいでしょうか。あるいは、直接十字架に釘づけたローマ兵たちのせいでしょうか。いいえ、これらの人々は、キリストを十字架につけた張本人とは言えません。

 では、いったいそれはだれのせいなのでしょうか。キリストを十字架につけた張本人は、実は、あなた自身なのです。あなたの罪が、キリストを十字架に追いやったのです。もしあなたに罪がなかったら、キリストはあのような苦しみに遭わなくてもよかったのです。
 あなたはおっしゃるかもしれません。「いいや、自分以外にもいっぱい人がいる。人類は何十億といるではないか。それらの人々も同罪ではないか。自分には、その何十億分の一の責任しかないはずだ」。いいえ、決してそんなことはありません。仮に人類があなたひとりしかいなくても、キリストは間違いなく、あなたのために死なれたはずです。キリストにとって、あなたはかけがえのない存在だからです。他の人はまったく関係ないと言ってよいのです。私たちは、あくまでも個人的に、キリストと向き合う必要があるのです。

 あなたにとっていちばん大切なことは、キリストがあなた自身の罪のために死なれたという事実を素直に受け入れ、「この方こそ、私の救い主である」と認めることです。あなたを愛し、あなたのためにこれほどの苦しみを受け、ご自分のいのちさえ捨ててくださったキリストの尊い犠牲を、決してむだにしてはならないのです。

次の問いに答えてください。

キリストの十字架上の言葉、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」の意味について、間違っているのはどれですか?
キリストの激しい苦しみと死はどのような意味を持つか、正しく説明しているものはどれですか?

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5.キリストの復活について

 「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(コリント人への手紙第一・一五章二〇節)

 重い病気と闘った後、絶望の淵から回復された方の話をよく聞きます。そのような話は確かに感動を誘いますが、冷静に考えてみると、いくら病気を克服したとしても、いつかは必ず死を迎えなければなりません。人間は死の前にはまったく無力です。したがって、少し冷めた言い方に思われるかもしれませんが、病気を克服するということは、死という問題を先延ばしにするということと同じではないでしょうか。
 ただ、「少しでも長生きしたほうが、いろいろなことができるわけだから、死を先延ばしにすることも、決してむだなことではない」と言えるかもしれません。ですから、多くの人は、できるだけ長生きをして、人生を楽しんだり、何かを全うしたりしようとするのです。
 しかし、いくら長く生きられたとしても、残念なことに、死を迎えるときには、人生の思い出も、自分が築き上げたものも、全部置いていかなければなりません。さらに、寂しいことに、よほど特別な人でもないかぎり、死んだあと、時間の経過とともに忘れ去られてしまうのです。

 時の権力者たちの多くは、死を非常に恐れました。一般の人たちと違って、この世に残していかなければならないものが多いのですから、当然のことでしょう。かの秦の始皇帝が、晩年、不老不死の薬を探し求めたという話は有名です。結局、彼はその薬を見つけることができず、他の人々と同じように死んでいきました。中国全土を支配したとしても、死を免れることはできなかったのです。
 このように、人生で多くのものを得れば、それだけ死はつらいものとなります。短い人生だからこそ、「死んでも悔いのないよう、人生を充実させよう」と一生懸命になるのですが、人生が充実したものになればなるほど、死ぬことがつらくなるのですから、皮肉なものです。ですから、死というものが存在するかぎり、何の不安もなく幸せに暮らすということは、絶対にあり得ないのです。

 しかし、ここに幸いなニュースがあります。「死んでから、みずからよみがえった方が、たったひとりだけおられるのです。それが事実なら、その方は、人類史上初めて、死そのものを克服されたことになります。数々の偉人が成し遂げたことよりも、はるかにすばらしいことを成し遂げられたのです。その方がだれかと言えば、その方こそイエス・キリスト――私たちの罪を背負ってあの十字架で死なれた方――なのです。
 キリストが十字架で死なれたのは有名な話ですが、その後どうなったかについては、あまり詳しくご存じない方も多いと思います。

 キリストは、十字架で息を引き取られた後、アリマタヤのヨセフという人の墓に葬られました。当時の墓は横穴式の洞穴のようなもので、遺体はそのまま墓の中に安置され、入り口には大きな石が置かれました。そして、ローマ兵が墓のそばで見張りをすることになったのです。
 なぜローマ兵が置かれたかと言えば、キリストが、ご自分が死んで三日目によみがえることを何度も予告しておられたからです(マタイの福音書一六章二一節ほか)。それで、キリストを憎むユダヤ人の指導者たちは、弟子たちがその予告を実行するためにキリストの遺体を盗むといけないと考え、ローマの総督に依頼して、番兵たちに墓の番をさせたのです。ですから、「弟子たちがキリストの遺体を盗んで、キリストが復活したことにした」という説が成り立たないのは明らかです。

 ところが、三日目の朝、イエスを慕う女性たちが墓へ行ってみると、墓の石は転がされており、ローマ兵の姿も見当たりませんでした。聖書によると、突然天使が現れ、ローマ兵たちは恐れをなし、逃げ出してしまったのです。
 その女性たちの中のひとり、マグダラのマリヤは、だれかがキリストの遺体を持ち去ってしまったと考え、泣いていたところ、彼女に呼びかける人がいました。マリヤは、それがだれだかわかりませんでしたが、その人から「マリヤ」と呼びかけられたとき、それがよみがえられたキリストだと、はっきりとわかりました。
 ――イエス様がよみがえられた!
 マリヤは大喜びで弟子たちにこのことを告げ知らせましたが、弟子たちはだれもその話を信じようとしませんでした。

 けれども、同じ日に、キリストは弟子たちにも姿を現されました。弟子たちはユダヤ人を恐れて一室に閉じこもっていましたが、そこにキリストが、よみがえられた姿を現され、「平安があなたがたにあるように」と言われたのです(ヨハネの福音書二○章一九節ほか)。キリストは、両手と、ローマ兵が槍で突き刺したわき腹(十字架にかかられた証拠)を弟子たちに示されました。ですから、「よみがえったというキリストは、実は替え玉だった」という説も成り立ちません。
 また、キリストがわき腹を槍で突き刺されたのは、絶命したことを確認するためでしたから、その傷跡があるということは、「キリストは一時的に仮死状態になり、それから蘇生した」ということもあり得ないことです。
 さらに、キリストは、ご自分が幽霊や幻でないことを証明するために、その場で焼いた魚を食べられました。ですから、このことによって、「弟子たちは幽霊や幻を見た」という説も否定されるのです。

 そして、極めつけは、五百人以上の人々のいる所で、キリストが、よみがえられた姿を現されたことです(コリント人への手紙第一・一五章六節)。数名の目撃者なら、幻覚を見ることもあるかもしれません。目撃者がわずかしかいないなら、その人たちが共謀して、うそをついているということも考えられます。けれども、五百人以上もいたとすると、その可能性は否定されるでしょう。このように、キリストがよみがえられたことは、あらゆる角度から考えて、疑う余地のないものなのです。

 ただ、これまでの話はすべて、聖書に書かれていることをもとに考えたものです。ですから、「聖書に書かれていることそのものが、フィクションだった可能性もあるのでは」と疑問を抱く方もおられると思います。
 そこで、新約聖書に収められている弟子たちの手紙は、「彼らがユダヤ教に代わる新しい宗教を作ろうと考え、キリストがよみがえったことにして書かれたものだ」と仮定しましょう。もしそれが事実なら、そのせいで、おびただしい数の殉教者が出たことになります。その人々は、弟子たちがうそをついたために、いのちを落としたのですから、弟子たちは、とんでもない罪作りなことをしでかしたことになります。普通なら、彼らは良心の呵責に耐え切れなくなり、途中で、だれか真実を暴露する者が現れても、不思議ではありません。けれども、そのような者はひとりもいませんでした。ですから、弟子たちが全員最後までうそをつき通したか、あるいは、彼らが書いたことが真実であったか、そのどちらかということになるでしょう。
 けれども、もしキリストがよみがえられたということが弟子たちの創作であったとすれば、彼らは、「偽りの証言をしてはならない」(出エジプト二○・16)という、(ユダヤ人にとって最高の律法である)十戒の重要な一つを破ったことになります。ユダヤ人でもある彼らが、神の律法にそむき、そのような大それたうそをつくとは思えません(コリント人への手紙第一・一五章一五節)。

 また、弟子たちの態度の変化も、キリストの復活を裏づけるものです。彼らがキリストに最後までつき従うほど意志の強い者たちであったら、いのちを張って何かをするということも考えられます。けれども、キリストが十字架にかけられたとき、彼らは恐れをなし、散り散りになって逃げてしまったのです。
 ところが、そのような弟子たちが、その後しばらくすると、突如、人が変わったように大胆にキリストの復活を証しするようになったのです。彼らに、いったい何が起こったのでしょうか。弟子たちを変える、何か強烈な出来事があったとしか考えられません。もしそのような出来事があるとしたら、キリストがよみがえられたことしか考えられないのです。
 このように、聖書が弟子たちの創作である可能性はあり得ないと考えてよいのです。

 では、キリストがよみがえられたことは、どういうことを示しているのでしょうか。
 第一に、キリストが神の御子であることを示しています。もしキリストが復活されなかったら、(生前、どれほどすばらしい奇跡を行われたとしても)結末は他の人と何も変わらないことになります。キリストとともに世界三大聖人として並び称される仏陀(釈迦)とマホメットは、決してよみがえりませんでした。彼らのからだは墓の中で朽ち果てましたが、キリストはそうではありませんでした。死後、三日目に、肉体をもってよみがえられたのです。キリストと他の聖人たちとの決定的な違いは、ここにあるのです。
 キリストが行われた数々の奇跡によっても、この方が神の御子であることが十分証明されましたが、復活されたことは、ほかのどの奇跡よりも、はるかにすばらしいものです。

 第二に、キリストのよみがえりは、復活が現実のものであることを示しています。もしキリストがよみがえらなかったら、復活は単なる絵空事でしかありません。その場合、死んだらそれで終わりです。しかし、キリストの復活が事実であるがゆえに、この方を信じる者は、「私が死んでも、キリストと同じようによみがえる」という希望を持つことができるのです。

 第三に、キリストを信じた者の救いが確かなものであることを示しています。もしキリストが墓に葬られたままだったら、救いのみわざが本当に完成したのかどうか、確認のしようがありません。
 けれども、キリストがよみがえられたことによって、この方を信じた者は、罪の問題が確かに解決されていることを、はっきりと確信することができるのです。

次の問いに答えてください。

キリストの復活についての説明で正しいのはどれですか?
キリストの復活が何を示しているか説明するもので間違っているのはどれですか?

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6.キリストの昇天と再臨について

 「イエスは彼ら(弟子たち)が見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。」(使徒の働き一章九節)

 キリストは、十字架にかかって後、三日目によみがえられました。では、今はどこにおられるのでしょうか。
 聖書によると、まずキリストは、よみがえられてから四十日間、弟子たちの前にご自分の姿を現されました。相当の数の人々がキリストの復活を目撃しました。その期間は決して短くはありませんでした。このことによっても、キリストの復活が確かなものであることがわかります。弟子たちが幻を見たというような、いい加減なものではないのです。四十日にもわたって、幻を見るということは考えられないからです。そして、その間、キリストは神の国について弟子たちにいろいろと教えてくださいました。そして、四十日がたって、弟子たちの見ている前で天に上って行かれ、やがて雲に包まれ、見えなくなられたのです。これが「キリストの昇天」です(使徒の働き一章参照)。ですから、キリストは、今は天におられるのです。

 キリストは、天にお帰りになってから、何をされたでしょう。
 まず、天に帰られてから十日ほど後に、この地上に聖霊を遣わされました。聖霊は、三位一体の神のおひとりです。この聖霊が弟子たちに下ると、彼らはキリストの復活を大胆に語り始めました。弟子たちは、習ったこともない外国のことばでキリストのことを証ししました。「異言」と呼ばれるものです。そのとき弟子たちがいたエルサレムには、世界中からユダヤ人が集まっていましたので、自分たちがいた国のことばで弟子たちが話すのを見て、非常に驚きました。これらは、すべて聖霊の働きでした(使徒の働き二章参照)。
 ――これは余談ですが、聖霊が下った当初は、異言を語ったり、奇跡を行ったりする力が弟子たちに与えられましたが、やがてそのような力はだんだん使われなくなっていきました。神の啓示が完全に表された新約聖書が完成するにつれて、証しの働きは「奇跡」から「聖書のみことば」へとバトンタッチしていったのです。――

 ある方は、「なぜキリストがよみがえられたのなら、そのままずっと地上に残って、自分を人々に現さなかったのか」と言われるかもしれません。
 けれども、キリストは弟子たちにこのように言われました。
「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主(聖霊)があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」(ヨハネの福音書一六章七節)
 もし、キリストが肉体を持ったまま、この地上におられたとしたら、その働きは非常に限定されることでしょう。たとえば、同時に何か所にも存在するということはできません。けれども、聖霊にはそのような制約はありません。霊ですから、いつ、いかなる場所にも存在することができるのです。キリストの昇天後、弟子たちは世界各国に散らばって宣教を行いましたが、彼らのそれぞれの働きを支えるためにも、聖霊が遣わされなければならなかったのです。

 それなら、「キリストと聖霊が、この地上でいっしょに働けばよいではないか」と考える人もいるかもしれません。けれども、キリストは、どうしても天にお帰りになる必要がありました。そこで行わなければならない別の働きがあったからです。キリストは弟子たちにこのように言われました。
「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」(ヨハネの福音書一四章二節)
 今、キリストは天国で、そこに迎えるべきすべての人のために場所を用意しておられます。この「住まい」ということばは、英語では「mansions(豪邸)」と訳されています。キリストを信じる人々のために、天に豪邸が用意されているというのです。それは、この地上のどの宮殿や城よりも、もっとすばらしいものであるに違いありません。

 キリストは続けて、このようにも言われました。
「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」(同三節)。
 キリストは、「準備が整ったら、私たちを迎えに来る」と約束してくださいました。キリストが天に帰られてから二千年近くたちますが、まだこの約束は果たされていません。約束が果たされていないということは、天に迎えられるべき人がまだ残っているということです。その人々のために、キリストは準備をしておられるのです。ですから、キリストが二千年間来られないからといって、その約束が反故にされたわけではありません。神にとって、千年は一日のようなものなのです(ペテロの手紙第二・三章八節参照)。

 やがてこの世の終わりが来ます。けれどもその前に、キリストが天から下って来られ、信じた人々は雲の中に一挙に引き上げられ、空中でキリストと会うことができます(テサロニケ人への手紙第一・四章参照)。このことは、キリストを信じるクリスチャンにとって最大の希望なのです。

次の問いに答えてください。

キリストの昇天の目的について、間違っているのはどれですか?
キリストの再臨について正しく説明しているのはどれですか?

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