【テーマ】
※各テーマの文末に問題がありますので、本文を読んでから答えください。
1.この世の終わりについて
「この天地は滅び去ります。」(マタイの福音書二四章三五節)
私たちは、多忙な毎日を過ごしていると、「この世に終わりが来るかどうか」ということなど、あまり考えないと思います。周りの世界が、いつもと同じような平静さを保っていたら、なおさらです。しかし、天災や異常気象などが頻繁に起こると、この世の終わりについても、ふと考えることがあるのではないでしょうか。
「形あるものはいずれなくなる」というのは、世の中の常識です。そうであるなら、この世界がいつかなくなるとしても、決して不思議なことではありません。たとえば、SF(空想科学小説)の世界では、巨大隕石の接近で、地球が壊滅の危機に瀕するという話がよくあります。一方、現実の世界でも、地球を何回も滅ぼすことのできる核兵器がこの地上に存在するのですから、自然現象によって滅びる前に、この地球が滅びてしまう可能性もあります。ですから、この世の終わりが来るというのは、まったく現実味のない話ではないのです。
さて、冒頭のことばはイエス・キリストが語られたものです。キリストは、「この天地は滅び去る」と、はっきりと預言されました。私たちは、自分を取り巻く環境がいつもどおりだからといって、安心してはいけません。いつまでもその状態が続くとは限らないのです。この地球の秩序は、(人間の力によってではなく)神の力によって保たれているからです。
文明や科学技術がどれだけ発達したとしても、また、人間の社会がどれだけ繁栄したとしても、「私たちは神の前にはまったく無力だ」ということを忘れてはなりません。たとえば、人間は、天気を予測することはできますが、天気に対しては何もできません。水不足だから雨を降らそうと思っても、雨雲を発生させることはできませんし、台風の被害を減らそうと思っても、その進路をそらすこともできません。地震に至っては、それを予測することさえむずかしいのです。自然界はすべて神の支配の下にあります。神はそれを意のままに動かすことができるのですから、人間の築き上げたものを天変地異によって一瞬のうちに破壊することなど、何の造作もないことなのです。
ですから、人間の力を過信したり、神に対して傲慢になったりしてはいけないのです。神は以前、(一家族を除き)全人類を洪水で滅ぼされました。有名なノアの洪水の話です。
――ある人たちはこの話をただの伝説だと思っておられるかもしれません。けれども、箱舟がとどまったと聖書に記されているアララテ山(トルコ、ロシア、イランの国境にある五千メートル級の山)に、箱舟らしきものがあることが、航空写真や衛星写真によって確認されています。
ただ、場所が場所だけに、冬は完全に氷河に閉ざされ、それ以外の季節でも、天気が少しでも崩れると、まったく捜索できなくなってしまうため、(個人による目撃情報はいくつかあるのですが)公式な確認には至っていません。
しかし、箱舟が発見されるか否かは、大した問題ではありません。聖書は神が記した書物であり、そこに書いてあることは間違いのない事実なのです。――
私たちは、ノアの洪水のことから、神が何度でもこの世界を滅ぼすことのできる方であることを知らなければなりません。ただし、再び洪水によって滅びるのではないと、はっきり聖書に記されています(創世記九章一一節参照)。
では、この世界は何によって滅びるのでしょうか。今度は、焼き尽くす火によると記されています(ペテロの手紙第二・三章一二節参照)。聖書から判断するかぎり、それは巨大隕石によるものではないようです。新約聖書の「ヨハネの黙示録」には、隕石のようなものが地球上に落ちて来て、さまざまな被害をもたらすことが預言されていますが(八、九章参照)、それで地球が滅びるとは書いてないからです。また、核戦争によって地球が滅びる可能性も少ないと言えます。聖書から判断すると、この地球は(人間の手によってではなく)神ご自身の手によって滅びるからです。その時がいつであるかは、だれにもわかりませんが(マタイの福音書二四章三六節参照)、その時が少しずつ近づいていることだけは確かです。
聖書にこれらのことが記されているのは、いたずらに人々の恐怖心をあおるためではありません。もしそうだとしたら、うさん臭いカルト宗教と何ら変わりありません。聖書には、この世の終わりがあることだけでなく、その理由も記されています。この世界が滅ぼされるのは、神が残酷な方だからではなく、私たち人間があまりに罪深いからです。この世界から、戦争や争い、憎しみがなくなることはありません。ノアの洪水の前の世界とまったく同じなのです。世界が滅ぼされる原因は私たちの側にあるのですから、私たちは、自分たちの罪のせいで、この世界が刻一刻と滅びに向かっていることを、ぜひとも知らなければならないのです。
2.死後のさばきについて
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」(ヘブル人への手紙九章二七節)
人はいずれ必ず死ななければなりません。これはだれもが認めることですが、「死んだあと、どうなるのか」ということについては、どの人にもそれぞれ考えがあるようです。
最も多いのは、「死んだら無に帰する」という考えです。これがいちばん現実的な考えのように思われていますが、「死後の世界を実際に見た人がいない」ということだけを根拠に、「死後の世界は存在しない」と言い切るのは、いかがなものでしょうか。人間はすべてを見通すことができるわけではありません。「人間は認識していないが、確かに存在するもの」は、世の中にはいくらでもあります。
一方、死が身近な問題になると、それまで頭の中で考えていたこととまったく違うことを考えることもあります。
たとえば、どこかで葬儀が行われているのを見ても、ふだんは特に何も感じないかもしれませんが、それが親しい人であった場合は、まったく考えが違ってきます。自分にとって大切な人であった場合は、特にそうです。赤の他人が亡くなったときは、「人間は死んだらそれっきりだ」と思っていたのに、大切な人の死に直面したときには、その人の存在が完全に消滅してしまったとは、とても思えない、なぜか、そのような不思議な気持ちになるのです。
その人の遺体を見ると、姿かたちは確かにその人なのに、本体はすでにそこになく、入れ物だけが残っているような感じです。そのようなとき、「人間というのは単に肉体だけの存在ではない。肉体とは別の何かが存在するのではないか」と思うのではないでしょうか。
ある人は、「そのような気持ちが宗教を生み出し、死後の世界を考え出した」と言われます。「死んだ人にまた会いたいという願いが、天国を考え出した」、「この世で悪いことをさせないよう、脅しのために、地獄を考え出した」と。天国と地獄が、人間の便宜で考え出されたものにすぎないなら、死後の世界が「ある」と言うのも、「ない」と言うのと、大差はありません。ともに根拠のない話だからです。
結局、「人が死んだら、それで終わりだとは言い切れないが、死後、どのようなことがあるかについては、まったく見当もつかない」というのが、多くの人の実感ではないでしょうか。
では、聖書は何と語っているのでしょう。聖書は、「天国も地獄もある」と、はっきり教えています。そして、「人間には、肉体だけでなく霊というものも存在し、人が死ぬと、その霊は神のもとに行く」と語っています。
「では、ほかの宗教の教えとどこが違うのか」と思われる方も多いと思いますが、聖書は、宗教という枠の中に納まり切らないほど、人知をはるかに超えた書物です。すべての事情を考慮したうえで、「この本は、神によって与えられたものである」という結論にどうしても導かれるのです。ですから、聖書が語る死後の世界は、全宇宙を創造された神が語られたものであって、人間が考え出したものではありません。ですから、聖書の教えは他の宗教と明確に区別することができるのです。
その聖書が、「人間には……死後にさばきを受けることが定まっている」と語っているのですから、私たちはこのことを厳粛に受け止めなければなりません。私たちは、だれひとり、神の前に罪のない者として立つことはできないからです。神は、私たちが生前行ったすべてのことに対して、厳正なさばきを下されます。聖書には、
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず……」(ローマ人への手紙三章二三節)
と、はっきり記されています。「栄誉を受けることができない」とは、天国に入ることができないということです。
聖書はこのように、「人は、死んだら、みな天国に行ける」という考えを、はっきり否定しています。それどころか、すべての人が罪に対するさばきを受けなければならない、と警告しているのです。聖書には、次のようなことも記されています。
「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた」(ヨハネの黙示録二〇章一五節)。
この「いのちの書」には、罪の問題を解決した人の名前だけが記されます。ですから、罪人のままの状態で、私たちの名前がそこに記されることは絶対にありません。また、この「火の池」とは、世に言う地獄のことです。そこに投げ込まれた者は、昼も夜も、永遠に苦しみを受けなければなりません(ヨハネの黙示録二〇章一〇節参照)。
このような話を聞くと、「神は何と残酷なのだろう」と感じる方もおられることでしょう。
けれども、神は私たち人間と違って、まったく罪のない方です。そればかりか、罪を徹底的に嫌われる方です。もし神に少しでも罪があるとしたら、それは本当の神とは言えません。また、罪に対して少しでも妥協してしまうなら、絶対的な正義というものは存在しないことになってしまいます。
天国は、罪がまったくない所です。もし、人間が罪を持ったまま天国に行ったとしたら、そこは、この地上と同じように罪人だらけになってしまいます。ですから、罪が少しでもあれば、その人は天国に入ることができないのです。
完全に罪のない状態を百点とした場合、百点満点の人だけが天国に入ることができる、ということです。もし一点でも足りなければ、入ることはできません。九十九点も零点も、罪があることには違いないのです。
世の中には、五十点から六十点ぐらいの人の割合がいちばん多いのではないでしょうか。そこで、もし仮に、そのあたりの点数の人まで天国に入れるとしたら、どこに線を引いたらよいのでしょうか。六十点で線を引いたら、五十九点の人があまりにもかわいそうです。それで、五十九点に線を引き下げたら、今度は五十八点の人がかわいそうになります。このように、きりがなくなってしまい、挙げ句の果て、零点の人まで、すなわち極悪人まで天国に入れないと、不公平になってしまいます。
ですから、「善人は天国、悪人は地獄」と単純に区別するのは、実はたいへんむずかしいのです。そういう意味では、「少しでも罪を持っていたら天国には入れない」というのがいちばん公平な方法と言えるのです。
死後のさばきに恐怖や不快感を覚え、聖書の話を聞こうとしない方もおられるかもしれません。けれども、聖書がはっきりと死後のさばきについて語っている以上、省くわけにはいきません。そもそも真理というものは、自分に都合の悪いことを語っている場合が多いのです。
聖書の話を拒んだ方は、死んでから神の前に立って神の聖さにふれたとき、自分が天国に行く資格のない者であることを、身にしみてお感じになるでしょう。
3.悪魔について
「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。」(イザヤ書一四章一二節)
多くの人は悪魔を空想の産物のように考えておられるのではないでしょうか。けれども、聖書には、はっきりと悪魔の存在が記されています。神が確かに存在するように、悪魔もまた実在します。悪魔は、単なる観念などではないのです。
神は悪魔について、このように言っておられます。「あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった」(エゼキエル書二八章一二節)。つまり、悪魔は、この世で最も美しく、賢い存在であるということです。悪魔はもともと天使でした。神が造られたものの中で、最もすばらしいものであったに違いありません。通常思い浮かべる悪魔のイメージは、子どもの絵本によく出てくる、角やしっぽが生えた姿や、オカルト映画に出てくるような不気味な姿ですが、これは、実際の悪魔とは、かけ離れていることになります。
では、それほどすばらしい被造物であった天使が、なぜ悪魔になってしまったのでしょうか。聖書は、その理由についてこう語っています。
「あなた(悪魔)は心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう』。しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる」(イザヤ書一四章一三-一五節)。
つまり、悪魔は高慢になり、神のようになろうとしたため、天から追放されてしまったのです。悪魔が堕天使と言われるのは、このことからです。ですから、高慢は罪の原点とも言えるものです。ちなみに、冒頭のみことばの「明けの明星」は、英語の聖書では「Lucifer」となっています。悪魔のことをルシファーと呼ぶことがありますが、それはこの箇所から来ています。
悪魔は、天から追放された後、この地上に活動の場を移しました。ですから、目には見えませんが、今この世は、悪魔が支配しているのです。このことは、いつまでたっても、この世から争いがなくならないことや、悲惨な事件が跡を絶たないことからも、うすうす感じることができるのではないでしょうか。もちろん、さまざまな悲劇の直接の原因は、私たち人間の中にある罪ですが、その罪を助長させているのは、私たちの背後にいる悪魔です。そもそも、人間に罪が入るきっかけを作ったのが悪魔ですから、悪魔はすべての元凶とも言えるのです。
そこで、「なぜ神は、悪魔が堕落した時点で、悪魔をすぐに滅ぼさなかったのだろうか」という疑問が生じます。そうすれば、人類に罪が入ることもなく、その結果、多くの人が地獄に行かなくても済んだのです。これはおそらく、聖書の最大の謎の一つでしょう。このことについての明確な説明は、残念ながら、聖書には記されていません。
人類に罪が入ったのは、悪魔が人を誘惑したからですが、神の命令にそむくということ自体は、アダムとエバが自分の意思で選択したことです。神はその能力――すなわち自由意志――をも、人にお与えになったからです。彼らは誘惑を拒むこともできました。
まったく誘惑のない状態で神に従うことより、誘惑の中でも神に従うことを選択するという、本当の従順を、神は人に望まれたのではないでしょうか。ですから、そのことを確認するためにも、悪魔に自由に行動することを許されたのだと思います。しかし、残念ながら、人はその期待に応えることができず、神を裏切る結果となってしまいました。
けれども神は、そのような人間の失敗に対して、ただ傍観するのではなく、その埋め合わせをしてくださいました。悪魔がもたらした破滅から救われる道を用意してくださったのです。それがイエス・キリストの救いです。キリストがこの地上に来られたのは、悪魔のわざを打ちこわすためでもありました(ヨハネの手紙第一・三章八節参照)。それだけでなく、悪魔によって破壊された、神と人との関係も修復してくださったのです。
このことについては、また詳しく考えたいと思いますが、キリストによって回復された神と人との関係は、アダムが罪を犯す以前の関係よりも、もっと幸いなものです。人が罪を犯す前は、創造主と被造物という関係でしたが、キリストによって回復されてからは、神の子どもとなる資格が与えられるからです(ローマ人への手紙八章一四-一六節参照)。親子のような非常に近しい関係へと引き上げられるのです。アダムが犯してしまった罪の結果は、非常に悲惨なものでしたが、神がそれを償ってくださり、その悲惨さを補って余りある結果としてくださったのです。
悪魔はこの世の終わりに必ずさばかれます。このことは、新約聖書の「ヨハネの黙示録」に詳しく記されています。神が、悪魔の振る舞いをいつまでも放っておかれることは、絶対にありません。悪魔はそのことをはっきりと自覚しているため(マタイの福音書八章二九節参照)、少しでも道連れを増やそうと、悪あがきをしています。つまり、人を少しでも神から引き離そうとしているのです。多くの人が自分の救いに無関心なのは、悪魔がいろいろなものを用いて、真理に目を向けさせないようにしているからです。ですから、この世の流れに流されて、自分の救いに関心がないとしたら、まんまと悪魔の策略にはまっていると言えるでしょう。
4.神の愛について
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネの手紙第一・四章一〇節)
分厚い聖書の内容をひとことで要約すると、「神は愛である」ということになるでしょう。しかし、神が愛であると言われても、神は目に見えない方ですから、なかなか実感がわかないかもしれません。私たちは何によって、そのことを実際に知ることができるのでしょうか。
まず第一に、私たちがこうして生きていること自体が、神に愛されている証拠です。人類の歴史は、神に対する反逆の歴史と言っても過言ではありません。まことの神を無視して、神でないものを神とし、人間同士が互いに争い、傷つけ合ってきました。普通に考えれば、人類はとっくに滅ぼされていてもおかしくありません。けれども神は、今日に至るまで、私たち人間が生きていくために必要なさまざまなもの――水や空気、太陽の光、作物など――を与えておられるのです。それは、神が私たちを愛しておられる証拠です。
ある人はこう言われます。「神が愛なら、なぜこの世に不平等があるのか。世の中には、貧しくて飢え死にする人たちだっているではないか」。
この言い分にも確かに一理ありますが、このようなことはすべて人間の罪の結果なのです。少なくとも、人類に罪が入る以前は、人間が飢え死にすることはありませんでした。そもそも、死そのものが存在しなかったのです。人は、エデンの園と呼ばれる所で、何の苦労もなく過ごすことができました。これが、神が人間に与えてくださった本来の環境でした。今の私たちが置かれている環境――飢饉や病気、災害がある世界――は、神がもともと望まれた世界ではありません。
けれども、現実がこのようになっているのは、人間が神にそむいた結果、罪がこの世界に入ったからです。その時、神は人(アダム)にこう仰せられました。
「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る」(創世記三章一七-一九節)。
ですから、この世界が私たちにとって楽園でない原因は、すべて罪にあります。私たちはこのことについて、神に文句を言える立場にはありません。
そればかりか、私たち自身が神を悲しませることばかり行っています。そのような私たち罪人が向かう場所は、永遠の地獄です。しかし、神は、私たちが地獄へ行くことを決して望んでおられません。そのような状況から何とか私たちを救い出したいと、切に願っておられるのです。けれども、神の義の性質はそれを許しません。もし神がわずかな罪でも見逃してしまわれたとしたら、絶対的な正義は存在しなくなってしまいます。ですから神は、私たちを地獄に送りたくないという気持ちと、罪を見逃すことができないご自分の性質との間で、ちょうど板ばさみとなっておられるのです。
このことを説明するためによく使われるたとえは、わが子をさばく裁判官の話です。このようなことは、現実にはあり得ないことですが、仮に、自分の子どもが死刑に値する罪を犯し、自分がその子どもをさばく裁判官に選ばれたとします。当然、親として、せめていのちだけは助けたいと考えます。しかし、私情を交えて事実をねじ曲げるようなことは、裁判官として、職務上絶対に許されないことです。それで、公正な裁判を行った結果、わが子に死刑を宣告しなければならないとしたら、その苦悩はどれほどのものでしょう。それこそ、まさに断腸の思いでしょう。
私たちにさばきを下すとき、神もまったく同じ心境でおられるに違いありません。神は、だれひとり地獄に送りたくはないのですが、どうしてもそうしなければならないとしたら、胸が張り裂けそうな悲しみを経験されることでしょう。私たちが地獄に行かなければならないことは、私たち自身にとってたいへんつらいことですが、それ以上に、神にとってもおつらいことなのです。それは、神の義と私たちの罪という、絶対に相容れない二つのものがもたらす、この世で最も悲惨なことと言えるでしょう。
それでは、神が私たちの罪をきちんとさばいたうえで、私たちを天国に入れてくださる方法はないのでしょうか。
実はたった一つだけあるのです。それは、だれかが私たちの罪を引き受けて、私たちの代わりに処罰されることです。先ほどのたとえでも、だれかがその子の代わりに罪をかぶって死刑になったら、その子は無罪放免になります(もちろん、このようなことは、実際にはまずあり得ませんが)。神はそれと同じようなことを計画してくださったのです。
ただ、その身代わりは、だれにでも務まるわけではありません。身代わりになる人に罪がないことが絶対条件です。もし罪があったら、その人自身がさばきを受けなければならないのですから、他人の身代わりなど、とうてい果たせるわけがありません。借金に苦しんでいる人が、他人の借金を肩代わりできないのと同じです。そうなると、私たち人間の中にだれひとり罪のない人はいないのですから、私たちを救う方法はないということになってしまいます。
しかし、たったひとりだけ、その条件を満たすことのできる方がおられるのです。それは神のひとり子イエス・キリストです。私たちと違って、この方には罪はまったくありません。唯一、私たちの身代わりとなることのできる方なのです。しかし、いくら資格があるからと言っても、愛するわが子を、自分に敵対する罪人たちのために犠牲にすることなど、普通に考えれば、絶対にできないことです。
けれども、そのことを、神は私たちのためにしてくださいました。神は、ご自分のひとり子をこの地上にお遣わしになり、この方を私たちの代わりに、十字架の上で、罪人としてさばいてくださったのです。神を無視し、神が悲しまれることばかりを行ってきた私たちのためにです。
何の価値もない私たちのために、そこまで犠牲を払ってくださった理由を説明できるものがあるとしたら、それこそが「愛」なのです。ご自分のひとり子さえも犠牲にされる愛、私たちに対する神の愛は、人間の愛とは違って、まったく打算のない、完全な、そして真実な愛です。
イエス・キリストが十字架で死なれたことこそ、神がご自分の愛を究極的に現された証拠です。「神が愛であるというなら、その証拠を示してほしい」と言われる方には、このことを、ぜひ知っていただきたいと思います。
5.神の御子イエス・キリストについて
「初めに、ことば(キリスト)があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネの福音書一章一節)
「イエス・キリスト」と聞くと、たいていの方は、絵画に描かれている姿を思い浮かべるのではないでしょうか。どの絵を見ても、不思議と、似たり寄ったりの雰囲気をかもし出していることから、実際の容貌も、そのようなイメージだったのかもしれません。髪は長く、ひげを伸ばし、若干面長で、白っぽい服を着て……といった具合です。けれども、聖書には、キリストの容貌に関する記述はいっさい出てきません。また、他の歴史的な文献の中にも、そのことに関する記録はまったくと言っていいほど存在しません。
もっとも、キリストがどのような姿をしておられたかということは、大して重要なことではありません。聖書によれば、キリストの人としての姿は、あくまでも仮の姿であり、本当の姿ではないからです。こう申し上げると、当然のことながら、疑問を感じる方もおられることでしょう。「キリストは単なる人間だ」と思っている人にとって、それ以外の姿があるなどとは思いも寄らないからです。
けれども、聖書を読むと、キリストがただの人間ではないことが、だんだんわかってきます。たとえば、この方は、出生からして普通の人とは違います。聖書によれば、キリストは処女からお生まれになりました(マタイの福音書一章、ルカの福音書一章参照)。このこと自体、常識では考えられない話です。ですから、ある人は、「この話は、後の時代の人が作り出したものだ」と考えます。しかし、キリストが処女からお生まれになることは、キリストが誕生される七百年も前に預言されていたことです(イザヤ書七章一四節参照)。すると、ある人は、「その預言に合わせて、そうした話が作り出されたのだ」と考えます。けれども、ただの「作り話」を信じる人々(クリスチャン)が、二十一世紀の今日に至るまで存在し続けているという事実は、いったいどのように理解すればよいのでしょうか。その人々は非常に特殊な人たち、あるいは、単に迷信深い人たちなのでしょうか。その中には、非常に優秀な、科学者と呼ばれる人たちもいますが、彼らが、何も考えずに、「キリストの処女降誕」を盲目的に信じるようになったとは思えません。
キリストが単なる人間でないことは、その生涯を知ることによっても、はっきりとわかります。たとえば、キリストは水をぶどう酒に変えました。目の見えない人の目を開けたり、足の不自由な人の足を治したりしたこともあります。そのうえ、死んだ人をよみがえらせたこともあるのです。このようなことは、普通の人には絶対にできないことです。
これらの奇跡に対する考え方は、二種類に大別することができます。その一つは、「まったくの作り話だ」というものです。あるいは、そこまでは言わないまでも、「後世の人が事実にかなり手を加えた」というものです。キリストが行われた奇跡は、人間には絶対に不可能なことばかりですから、キリストが私たちと同じ人間だとすると、「これらの奇跡は、間違いなく、作り話か誇張だ」という結論に達します。
けれども、これとはまったく逆の考え方もできます。それは、これらの奇跡が実際に起こったと考えて、「もし奇跡の記事が事実に基づくものなら、キリストは単なる人間ではない」と結論づけることです。
そもそも、キリストが地上を歩まれた当時も、奇跡というものは、日常的には起こり得ないことでした。それは今日とまったく同じ状況です。当時は、ローマ帝国が世界を支配しており、非常に高度の文明が発達した時代でした。そのような時代に、実際に起こってもいない奇跡の話をでっち上げても、だれも信じなかったことでしょう。今から二千年前だから、そのような話がすんなりと受け入れられた、ということは決してないのです。
キリストの奇跡が記されている福音書は、いずれも紀元一世紀に、キリストと実際に生活をともにした弟子たちによって書かれたものです。当時は、実際にキリストを見た人たちが、弟子たち以外にも、まだ生きていました。ですから、事実と違うことを書いたら、すぐにうそを見破られてしまいます。ましてや、ユダヤ人の社会でも、ローマ帝国でも、クリスチャンが激しく迫害された時代です。イエスを神の御子として宣べ伝えたら、それこそ、いのちの保証はなかったのです。そのような時に、あえて事実と違う話を作り上げて、自分のいのちを危険にさらす必要があったでしょうか。そのようなことに意味がないことは、弟子たち自身がいちばんよくわかっていたはずです。ですから、キリストの奇跡の記事を弟子たちの作り話と考えるのは、かなり無理があります。
キリストが私たちの理解できる範囲のことしか行わなかったとしたら、キリストは私たちと変わらない、ただの人間ということになります。けれども、キリストが行ったことは、ただの人間にしては、あまりに偉大だと言わざるを得ません。
キリストが活動された期間は、実質的には、わずか三年余りです。中学か高校に通うほどのわずかな期間で、普通の人ができることと言えば、たかがしれていますが、キリストは、その短い期間で、世界の歴史を大きく変えたのです。しかも、キリストが活動されたのは、パレスチナのごく限られた地域(日本で言えば、四国ぐらいの大きさ)でした。それが、今や、世界中どこへ行っても、キリストのことを知らない人がいないほどです。
そのうえ、キリストは貧しい大工の息子であり、高等な教育を受けたわけでもありません。そのような人物が、世界の歴史の流れを変えるほどの影響を与えてきたのですから――実際、歴史は、キリストの誕生を境に、紀元前、紀元後と大きく二つに区分されています――実に不思議なことです。
もちろん、キリストのことが広く世界に知られるようになった背景には、弟子たちの働きがあります。けれども、彼らがいのちがけでキリストのことを伝えようとしたからには、伝えることにそれだけの価値があったはずです。彼らにそこまでさせることのできた何かが、キリストのうちにあったのです。
では、弟子たちはいったい何を伝えようとしたのでしょうか。それは次のことです。
「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」(ヨハネの福音書二〇章三一節)。
つまり、弟子たちは、キリストを偉大な宗教家として、あるいは思想家や革命家として宣べ伝えたわけではありません。イエスを神の御子、キリスト(救い主)として宣べ伝えたのです。イエスが神の御子であるという確信があったからこそ、彼らはすべてを犠牲にしても、キリストのことを宣べ伝えることができたのです。
キリストが神の御子であるなら、これまでの議論に決着がつきます。つまり、処女から生まれたとしても、また、いかなる奇跡を行ったとしても、何の不思議もありません。むしろ、私たちと同じ生まれ方をしたら、本当に神の御子かどうか、疑わしいものです。そして、神の御子であるなら、奇跡を行うことなど、できて当たり前なのです。
この世界は神によって創造され、一定の法則の下に保たれています。奇跡というのは、その法則から外れたことが起こることです。けれども、神には、必要に応じてその法則を変えることなど、わけもないことなのです。
そして、弟子たちが何よりも伝えようとしたことは、キリストが死後三日目によみがえられたことです。キリストの復活は、キリストが神の御子であるという最大の証拠です(このことについては、後ほど詳しく考えたいと思います)。
そういうわけで、「イエスは神の御子である」というのは、単なるフィクションではありません。私たちが思い描くキリストの姿は、人の姿をとってこの地上に来られた仮の姿にすぎません。その本来の姿は、神と同様、まばゆく光り輝く姿なのです(ヨハネの黙示録一章参照)。キリストは、滅び行くこの世から私たちを救い出すために、その栄光の姿をお捨てになり、私たちと同じ姿でこの世においでくださいました。このことが聖書の中心的なメッセージなのです。
6.三位一体について
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」(コリント人への手紙第二・一三章一三節)
「三位一体」ということばは、最近、いろいろな場面で使われ、一般の人にも知られるようになってきましたが、もともとは聖書と関係のある用語です。「神は一つでありながら、父、子、聖霊という三つの立場を持つ」ということを表すことばです。ただし、このことばそのものは、聖書に出てくるわけではなく、後の時代の人が便宜上作ったものです。けれども、聖書の神のご性質をほぼ的確に表現しているので、今日に至るまで、クリスチャンの間で広く用いられてきました。
三位一体のことは、聖書の神を理解するうえで非常に大切なことなので、今回はこのことについて、少し考えてみましょう。
まず、聖書は「神は唯一である」と語ります。これは非常にわかりやすい話です。神はたったひとりしかおられないということです(したがって、ギリシャ神話や日本の神話のように、さまざまな神々の存在を認める多神教は間違いということになります)。
けれども、聖書を読んでいくと、唯一の神が三つの立場を持っておられることがわかってきます。それが、先ほども少しふれた「父、子、聖霊」という三つの立場です(マタイの福音書二八章一九節参照)。
「そうすると、神が三つ存在することになるではないか。多神教とどう違のか」と思う方もおられることでしょう。多神教の神々は、それぞれ別個の存在です。けれども、聖書の神は、三つの立場に分かれて存在しておられるのですが、それぞれがまったく同じ性質を持っておられるので、「神は一つである」ということと決して矛盾しないのです。
このことを説明するために、よく「水」が例として用いられます。水は、状況によって、三つのものに変わります。常温の場合は液体ですが、氷点下になると氷(固体)になり、沸騰すると水蒸気(気体)に変わります。水、氷、水蒸気は、状態はまったく違いますが、どれもまったく同じものです。それと同じように、神は三つの立場を持っておられますが、その三つの存在は本質的にまったく同じなのです。
この水のたとえは、あくまでもたとえであって、三位一体の教えを完全に説明するものではありません が、理解するための助けにはなると思います。
三位一体の神について説明しているみことばを、もういくつかあげてみます。まず一つ目は旧約聖書からです。
「神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。……』と仰せられた」(創世記一章二六節)。
これは、神が人間を創造するときに語られたことばです。神は、ご自分のことを語るために「われわれ」ということばを用いておられます。神は一つなのですから、ご自分のことを一人称で言う場合は、「わたし」ということばを用いるはずです。それなのに、ここでは「われわれ」と複数形になっているのですから、とても不思議です。しかし、ここでは、神が、父・子・聖霊という複数の立場から語っておられるのです。つまり、この「われわれ」という表現は非常に不自然なものに思えますが、神が三位一体の存在であるなら、何の不思議もないのです。
もう一つ、新約聖書では、キリストご自身が、父なる神との関係について、
「わたしと父とは一つです」(ヨハネの福音書一〇章三〇節)
と語っておられます。
本来、父と子は別個の存在のはずです。けれども、キリストは、ご自分と父なる神は一つである、と語られました。このことからもわかるように、父なる神と子なる神は、独立した存在でありながら、霊的には一つの存在なのです。
父なる神と子なる神についてはすぐに理解できるかもしれませんが、聖霊なる神を理解するのはむずかしいかもしれません。父・子という関係は、私たち自身の親子関係に当てはめて考えることができますが、聖霊の場合は、そういう身近な例がないため、イメージしにくいからです。
実は、聖霊について説明しようとすれば、何冊もの本ができてしまうほど、聖霊に関する教えは奥深いものです。ですから、ここで十分に説明することはできませんが、聖書によれば、聖霊なる神は、父なる神、子なる神とともに、目に見えないところでいろいろと働いておられる方なのです。
一例をあげると、人の心が変えられ、イエスを主と告白するようになるのは、この聖霊の働きです(コリント人への手紙第一・一二章三節)。また、信者の心に働きかけ、その信仰の成長を助けるのも、聖霊の働きです。ですから、キリストは聖霊のことを「助け主」と呼ばれました(ヨハネの福音書一四章一六節)。
聖霊はいちばんわかりにくい存在ではありますが、今日の私たちにとっては、このように「助け主」となって働いてくださるいちばん身近な存在なのです。
また、三位一体は、後世の人々が考え出した教えにすぎないのでしょうか。いいえ、決してそんなことはありません。先ほど例をあげましたが、このことを示唆するみことばは、旧約聖書にも、新約聖書にも、いくつも記されています。
たとえば、冒頭にあげたみことばは、父なる神、子なる神、聖霊なる神が同等であることを示すもので、三位一体の教えの根拠として、最も有名なみことばの一つです。ですから、三位一体の教えは、もともと聖書に記されていることであり、決して人が考え出したものではありません。後世の人は、その事実を三位一体という教理にまとめたにすぎないのです。
三位一体の教えについては、神学者のように学問的に考えるよりも、「神は三つだけれども一つなのだ」とシンプルに考えたほうが、すっきりしてよいでしょう。人間の頭でこの教えを完全に理解することは、おそらく不可能なことでしょう。神は、全宇宙を創造され、それを支配しておられる方ですが、私たち人間は、宇宙の広さがどれぐらいかということさえ知りません。そのような人間が、万物の創造主であり、保持者である方のことを完全に理解すること自体が、土台無理な話なのです。
ですから、たとえ完全に理解できないことがあっても、「聖書は神の書物であり、そこに書いてあることは真理である」ということを受け入れて、三位一体の教えについても、それをそのまま受け入れることが大切なのです。
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