【テーマ】
※各テーマの文末に問題がありますので、本文を読んでから答えください。
1.永遠のいのちについて
「わたし(キリスト)は彼ら(クリスチャン)に永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネの福音書一〇章二八節)
世の中の宗教は、「病気が治る」、「お金が儲かる」、「良縁がある」といった、いろいろなご利益を売り物にしていますが、そのようなものは、ことごとく、死によって失われてしまうものばかりです。病気が治っても、人はいつか必ず死を迎えます。お金が儲かっても、良縁が見つかっても、それらは全部、死によって失われるのです。
ですから、人間にとって最も大切なことは、死によっても失われることのないものを手に入れることではないでしょうか。キリストが私たちに与えようとしておられるのは、まさにその失われることのないもの、すなわち、永遠のいのちなのです。
もし、永遠のいのちにそれほど魅力を感じないとしたら、それは、その価値があまりわかっていないからではないでしょうか。この世で欲しいものがたくさんあり、それを追い求めるのに一生懸命で、それを手に入れたあとのことなど、考える余裕もないのでしょう。
けれども、この世のものを手に入れたとしても、必ず何かむなしさが伴うものです(一時的な満足や達成感はあるかもしれませんが)。そして、そのむなしさを紛らわすために、それに代わるものを次々に求めていくのです。人生は、その繰り返しと言ってもよいでしょう。
この世のもので十分満たされたとしても、「いつかそれを失ってしまうかもしれない」という不安と闘わなければなりません。ですから、この世で欲しいもの全部を手に入れた人たちが最後に欲するのが「永遠のいのち」なのです。それなら、この世のものをあれこれ追い求めるのではなく、まず、この最も大切なものを手に入れることを考えたほうが、はるかに賢明ではないでしょうか。
キリストはこのように言われました。
「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」 (マタイの福音書一六章二六節)
実は、この「まことのいのち」、すなわち永遠のいのちを、どのようにしたら手に入れられるのかを知ることが、聖書を読む目的でもあるのです。聖書が書かれたのは、それを読む人がイエス・キリストを自分の救い主として信じ受け入れて、永遠のいのちを得るためだからです(ヨハネの福音書二〇章三一節参照)。
では、永遠のいのちとは、実際にはどのようなものなのでしょうか。また、具体的にどのように幸いなのでしょうか。
聖書によると、永遠のいのちを与えられた者は、朽ちないからだを手に入れることができます(コリント人への手紙第一・一五章三五-五八節参照)。私たちの今のからだは、ある年齢を超えると、だんだん衰えていきます。病気をしたり、やがて死によって朽ち果てていきます。しかし、その朽ちないからだには、これらのことがまったくありません。それは、キリストが肉体を持って死から復活されたときのからだと同じようです。そのからだは、もはや死を経験することがありません。キリストを信じた者は、朽ちない、すばらしいからだを手に入れることができるのです。
たとえ現在、自分のからだにコンプレックスがあったとしても、病気や障害があったとしても、まったく心配する必要はありません。やがて、何一つ欠点のない、まったく新しいからだに造り変えられるからです。
永遠のいのちを手に入れた人は、永遠を、新しい天と新しい地(いわゆる天国)で、キリストとともに過ごすことができます。そこはいっさい罪のない世界で、私たちがこの世で経験するような苦しみ、悲しみはまったく存在しません。そこには神とキリストが中心におられ、太陽のように光り輝いておられます。そこで、神とキリストとの愛の交わりを永遠に持ち続けることができるのです(ヨハネの黙示録二一、二二章参照)。
キリストと私たちの関係が引き裂かれることは絶対にありません。永遠という「時間」をかけても、キリストのすばらしさを知り尽くすことはできませんし、キリストの愛も永遠に変わらないからです。ですから、永遠のいのちを手に入れるということは、単に永遠に生きるということではなく、私たち自身が完全なものへと変えられ、最も楽しい時を永遠に過ごせるようになるということなのです。
けれども、もし永遠のいのちを手に入れることができなかったら、そのときはどうなるのでしょうか。神から引き離され、まったく正反対の立場になるのです。すなわち、火と硫黄の池に永遠に投げ込まれ、その中で永遠に苦しまなければならないのです。そこは、神の愛も恵みもまったく存在しない所です。永遠のいのちが与えられた場合と比べて、何と対照的なことでしょう。まさに天と地ほどの開きがあるのです。
だからこそ、今、生きているうちに、イエス・キリストを信じ受け入れ、この永遠のいのちを何としてでも手に入れなければならないのです。ほかのものを追い求めることによって、いちばん大切なものを失ってしまったとしたら、永遠に後悔することになるのです。
2.信仰について
「見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネの福音書二〇章二九節)
何かのきっかけでキリスト集会(教会)へ行くようになり、そこで聖書の話を聞いていると、クリスチャンがどのようなことを信じているのか、聖書の語る救いとは何か、そして、救われるためにはどうしたらよいのか、といったことは、だんだんおわかりになるでしょう。
救われるためには、まず、キリストの福音について語られていることをきちんと理解することが非常に大切です。まことの神がおられること、神の前に自分が罪人であること、私たちを救うために、神がそのひとり子イエス・キリストを遣わしてくださったこと、この方が私たちの代わりに十字架で死なれ、三日目によみがえられたことを、はっきりと理解しなければなりません。これは、聖書が伝えていることの中で、最も重要なことなのです。
しかし、単にそのことを理解しただけでは、決して救われたことにはなりません。聖書の話を理解することと、それを信じ受け入れることとは、基本的に別のことです。前者の場合は、聖書が何を言っているのか、ということが頭でわかりさえすればよいのですが、後者の場合は、聖書の話が百パーセント真実であることを心から受け入れる必要があります。特に、キリストが十字架にかかって死なれたのが自分の罪のためであったことを、はっきりと自覚しなければなりません。
キリストは次のように言われました。
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようになら ない限り、決して天の御国には、はいれません。」(マタイの福音書一八章三節)
救われるためには、どうしても子どものようになる必要があります。子どもには「素直である」という特徴があります。幼い子どもは、親の言うことを素直に受け入れます。理屈で考えてからではなく、親がそう言っているから、という理由で、そのまま受け入れます。同じように、聖書の話も、「神が語っておられるのだから」と、素直に受け入れることが大切なのです。
もちろん、「聖書が語っていることは正しいのだろうか」と自分なりに吟味してみることも大切です。やみくもに何でも信じればよいというわけではありません。悪魔は、いろいろな偽物をとおして、多くの人の目を真理から遠ざけようとします。ちまたには、人の弱みにつけ込む新興宗教があふれていますから、そうしたものに十分警戒しなければならないことも確かです。ですから、聖書の場合も、最初から何でも鵜呑みにするのではなく、いろいろ疑問を持って、それを一つひとつ、つぶしていくことが必要でしょう。聖書には、いくら読んでも、よくわからないところがたくさんありますが(聖書に書かれていることを全部理解している人など、ひとりもいません)、決して荒唐無稽な書物ではないということはわかっていただけると思います。
そのように吟味を重ねたうえで、聖書が信じるに値するものだとわかったなら、たとえ、そこに書かれてあること全部を理解できなかったとしても、最後にはそれをそのまま真実のこととして受け入れればよいのです。それが信仰なのです。
よみがえられた姿をキリストが弟子たちに現されたとき、トマスという弟子はたまたまそこに居合わせず、その姿を目撃することができませんでした。ですから彼は、他の弟子たちが
「私たちは主を見た」
と言っても信用せずに、次のように言いました。
「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」(ヨハネの福音書二〇章二五節)。
その時の彼は、キリストの復活を信じない今日の人々の代弁者そのものでした。
ところがキリストは、よみがえられたご自分の姿を、その後、トマスにもはっきりと現されました。さすがのトマスも、キリストの姿を実際に目の当たりにすると、復活が紛れもない事実であることを認めざるを得ませんでした。そして、キリストに対して、
「私の主。私の神」(同二八節)
と告白したのです。そのときキリストが彼に語られたのが、冒頭に記した
「見ずに信じる者は幸いです」
というみことばです。
トマスには「復活の証人」として働く必要があったため、キリストはよみがえられた姿を彼に現されましたが、今日の私たちには、そのようになさることはありません。聖書という神の証言集がすでに完成しているため、その必要がないからです。代わりに神は、私たちが、聖書に書いてあることをそのまま信じ受け入れることを望んでおられるのです。
もしだれかが自分のことを全面的に信用してくれて、自分が言ったことを疑わずにそのまま受け入れてくれたら、うれしく思うのではないでしょうか。反対に、「何か、証拠を見せろ」と言われたら、あまりいい気分はしないことでしょう。信用されるということは、人にとって喜びです。それは神にとっても同じことではないでしょうか。ですから神は、信仰を持ってご自分に近づく人を喜んで受け入れてくださるのです(ヘブル人への手紙一一章六節参照)。
3.「悔い改め」について
「あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」(使徒の働き三章一九節)
人が神のもとに立ち返るために、どうしてもしなければならないことがあります。それは、自分自身の罪を悔い改めることです。悔い改めることなしに、人が救われることは絶対にありません。
小さな子どもが悪いことをしたとき、親が子どもに求めることは何でしょうか。その子が素直に「ごめんなさい」と言うことではないでしょうか。
神は罪を忌み嫌っておられます。ですから、私たちを愛していても、罪を持ったままの私たちを受け入れることはなさいません。私たちのうちにある罪は、神との間の非常に大きな障害となっているのです。
けれども神は、私たちが自分の力で罪の問題を解決できないことを、よくご存じです。だからこそ、今から二千年前にキリストをこの地上に遣わし、この方を十字架につけることによって、贖いのみわざを完成してくださったのです。
ですから、私たちが罪の赦しを得るための条件は、もはや完全に整っています。あとは、「キリストの十字架の死は私の罪のためであった」と認め、神の前に悔い改めることだけが残っているのです。
たとえば、子どもがいたずらをして、他人の家の物を壊してしまったとしましょう。子どもにはそれを弁償することができませんから、親が弁償することになり、その子がしでかした不始末については、その時点で、きちんと処理されたことになります。
しかし、その子に少しも悪びれたところがなく、反省の色が見えないなら、親は、弁償が済んだからといって、その子をそのまま赦すことができるでしょうか。決してできないと思います。自分が悪いことをしたということを十分に理解し、心から反省することを、親はその子に望んでいるからです。
同様に、神も、罪の問題そのものに関しては、キリストの十字架において、すでに解決してくださいました。あとは私たちが神の前に悔い改めるのを待っておられるのです。けれども、もし私たちが悔い改めなかったとしたら、いくら罪の贖いが完成していたとしても、神は私たちを受け入れることができません。
まず、私たちが本当に心から悔い改めるには、自分自身の罪をはっきりと自覚しなければなりません。キリストは、
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイの福音書五章三節)
と言われましたが、このことばは、自分の罪を自覚できる人のことを指しています。自分が罪人であることが素直に自覚できる人は、本当に幸いです。
福音書を読むと、人々から尊敬されていた宗教指導者たちよりも、人々からさげすまれていた遊女や取税人たちのほうが、多くキリストのもとへ来たことがわかります(当時の取税人は、統治国のローマに雇われ、同胞のユダヤ人から、必要以上に高額の税金を取り立てていましたので、罪人の代名詞のように思われていました)。それは、彼らのほうが、宗教指導者たちよりも、自分の罪深さを自覚していたからです。
人の目から見れば、「宗教指導者たち」と「遊女や取税人たち」には、大きな差があるように思えるかもしれません。けれども、神の目から見れば、そんなに大きな違いはないのです。
たとえば、身長二メートルの人と一メートルの子どもを、人間の視線から見たとしたら、背丈の違いをずいぶん感じますが、高層ビルのてっぺんから見下ろせば、ふたりとも豆粒のようなものです。一メートルの差など大した違いではありません。人間同士の違いなど、神の目から見れば、この程度のものなのです。
ある人が天国へ行くか、それとも地獄へ行くかは、その人がどれだけ善いことをしたか、あるいは悪いことをしたかによって決まるのではありません。その人に罪があるか、ないかだけによって決まるのです。そして、少しでも罪があったら、その人は地獄へ行かなければならないのです。
地獄でのさばきは、当然のことながら、地上で犯した罪に応じて行われます。悪いことをたくさん行えば、それだけ罰も重くなります(マタイの福音書一一章二二、二四節参照)。この地上で善いことをした人と、悪いことばかりをした人が、まったく同じ扱いを受けることはありません。神は決して不公平な扱いをなさらないからです。けれども、罪を悔い改めないかぎり、地獄へ行かなければならないということだけは、どんな人にも当てはまるのです。
ですから、「私には罪はない。悔い改める必要もない」と考えていた宗教指導者たちのほうが、罪人として扱われていた遊女や取税人たちよりも、たちが悪かったと言えます。彼らは、「私たちは、今のままでも救いに値する」と考えて、悔い改めようともせず、自分たちが罪人とみなす人々を見下していたのです。
たとえ、どんな名医がいたとしても、あるいは、どんな病気にもきく特効薬があったとしても、自分が病気だと思っていない人には、これらはまったく意味のないものです。病気を治す第一歩は、本人が自分の状態を自覚することです。私たちも、罪という、人を永遠の滅びに至らせる病を治すために、まず、自分が罪人であるという自覚を持たなければなりません。
では、自分が罪人であることを知るには、どうすればよいのでしょうか。そのことを、経験をとおして、嫌というほど教えられる方もおられるかもしれません。
けれども、いちばん幸いなのは、聖書のことばによって自分の罪が示されることです。聖書には、「神の聖さ」と「人間の罪深さ」がよく記されています。そして、人がどれだけ神の愛に背を向けて生きているかが、いろいろな人物の記事をとおして教えられます。それらのみことばが自分自身と重なるとき、それまではまったくピンと来なかったことが、急にわかるようになってきます。聖霊が、聖書のみことばをとおして、その人の心のうちに働いてくださるからです。そのような機会が与えられるためにも、なるべく集会に出席し、自分でも聖書を読んでみることが大切です。
そして、もし自分の罪が示されたのなら、自分が罪人であることを神の前に素直に告白することです。そうすれば神は、あなたが今まで犯してきた罪、また、これから犯すであろう罪のすべてを、キリストのゆえに赦してくださいます。
「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネの手紙第一・一章八、九節)
4.従うことについて
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイの福音書一六章二四節)
聖書の福音を十分に理解し、キリストを救い主として信じ受け入れることができたら、その次は、キリストに従うことについて考えるべきです。「救われたら、それでおしまい。キリストには、もう用はない」というのでは、いのちを捨てて私たちを救ってくださった方に対して、あまりに失礼な話と言えるでしょう。
キリストも、ご自分を信じる者に、ご自分に従ってほしいと望んでおられます。キリストに従うことは、キリストの愛に応えることです。自分が受けた愛に対して、少しでも応えたいと思うのは、当然のことではないでしょうか。もし、「キリストを信じるのはよいが、キリストに従うのはいやだ」と言う方がおられたら、そのような方は、キリストが私たちをどれほど愛しておられるのか、また、私たちのためにどれほど犠牲を払ってくださったのか、もう一度お考えになってみてください。
キリストが十字架にかかってくださったのは、私たちが地獄へ行くことのないようにするためでしたが、それだけでなく、私たちが罪の生活を離れ、神とともに歩むようになるためでもありました。
そもそも私たち人間が造られたのは、神と交わり、神をほめたたたえるためでした。しかし、人間に罪が入ってしまったために、それができなくなってしまいました。それを、キリストが十字架の贖いによって、人間が本来あるべき状態に戻してくださったのです。ですから、自分中心の生き方をやめて、キリストに従い、神のために生きるということは、人間の本来あるべき姿に立ち戻ることなのです。
キリストに従うのをためらうのは、「クリスチャンになると、できないことがいろいろと増えるのではないか」と心配するからかもしれません。
たとえば、酒やタバコ、ギャンブルなどがそうです。けれども、これらは決して人に益をもたらすものではありません。酒に関して言えば、
「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです」(エペソ人への手紙五章一八節)
というみことばがあります。日本では、酔うために酒を飲むというのが普通ですから、証しのためにも、「いっさい飲まない」と宣言したほうが、酒から来るいろいろな失敗から確実に守られます。
また、タバコに関して言えば、
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり……」(コリント人への手紙第一・六章一九節)
とありますので、聖霊の宮である自分のからだを蝕むようなことをすべきではない、とわかります。ギャンブルについて言えば、
「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい」(ルカの福音書一二章一五節)
とあります。まっとうな仕事以外で、お金を得ようとすることは、貪欲から出た行為以外の何ものでもありません。
クリスチャンでない人でも、「これらのものに呑まれないように気をつけなければならない」と言っているのですから、むしろ、きっぱり縁を切ることができるとしたら、逆に幸いだと言わなければなりません。
また、「日曜日にやりたいことがあるから、毎週、集会に行くことはたいへんだ」と考えることがあるかもしれません。けれども、日曜日は、キリストがよみがえられた日です。キリストが十字架にかかり、私たちの贖いを成し遂げてくださったことを集会(教会)で記念する日です。日曜日に自分のやりたいことをやったとしても、それで本当に心が満たされるでしょうか。集会に行き、自分を救ってくださった方に思いを馳せ、神に賛美をささげるなら、私たちは霊的に十分満たされるのです。
あるいは、「クリスチャンになると、世の中で生活するうえで、いろいろ支障が出てくるのではないか」という不安もあるかと思います。たとえば、「親戚づきあいや近所づきあいに面倒なことが起こりはしないか」、「職場や学校で変な目で見られはしないか」といったことです。特に、クリスチャンは、まことの神以外のものを拝むこと(偶像礼拝)はしませんから、冠婚葬祭などで周りの人と衝突したり、摩擦を生じたりするかもしれません。
昔の時代のように、クリスチャンであるというだけで迫害されるようなことは、今日の日本ではほとんどありませんが、クリスチャンとして敬虔に生きようとすると、ある程度の困難は避けられません。未信者に囲まれ、自分が孤立しているように感じることも、しばしばあることでしょう。
これらのことは、キリストに従ううえで背負わなければならない「自分の十字架」です。けれども、その「十字架」は、キリストが背負われた十字架に比べれば、比較にならないほど軽いものです。しかも聖書は、
「あなたの重荷を主にゆだねよ」(詩篇五五篇二二節)
と語っています。私たちの負うべき十字架さえ、主が背負ってくださるというのです。何という恵みでしょうか。
ですから、キリストに従って歩むということは、最初はたいへんなことのように思えますが、「主がすべてを守ってくださる」という信仰を持って歩み出せば、その信仰のとおりになるのです。「案ずるより産むが易し」と言いますが、信仰の一歩を踏み出す場合も、まさにそのとおりなのです。
主に従うことを躊躇しておられる方の中には、「自分はまだ、クリスチャンとして歩むにはふさわしくない」と考えておられる方も多いようです。けれども、最初から完璧なクリスチャンになろうとする必要はありません。信仰の一歩を歩み出すということは、人にたとえるなら、赤ん坊が「おぎゃー」と生まれるようなものです。小さな赤ん坊が、一人前の大人と同じように行動できるでしょうか。決してできません。信仰生活も同様です。赤ん坊が時間をかけて徐々に成長していくように、クリスチャンも徐々に成長していけばよいのです。
ですから、「神が喜ばれないことはやめる」、「日曜日は主のために用いる」といった、クリスチャンとして歩むうえでの最低限の条件を満たすことができたら、将来のことはあまり心配せずに、まず第一歩を踏み出すべきです。
救われるためには、「神は死者をよみがえらせることもできる」という信仰が必要ですが、信仰の歩みを始めるためには、「どのような状況においても、神は私を守り、霊的に成長させてくださる」という信仰が必要なのです。
聖書には、
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」(伝道者の書一二章一節)
というみことばもあります。ある人は、「キリストを信じてもいいが、若いうちは自分の好きなことをやって、年老いてから信じることにしよう」と考えるかもしれません。しかし、この考え方は非常に危険です。自分が老いを迎えることができるという保証など、どこにもないからです。今日、事故に遭って、その場ですぐ死んでしまうかもしれないのです。「死が間近に迫ってから考える」と言う人は、自分が突然死ぬこともあるということをまったく想定していないのです。そのような人ほど、
「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる」(ルカの福音書一二章二〇節)
と、神から宣告を受けることになってしまうかもしれません。また、年を取れば取るほど、世のしがらみが増え、捨てなければならないものも増えていくので、従うことが余計困難になっていきます。そして、煮え切れないまま、生涯を終えてしまう可能性が高いのです。
反対に、若いときからキリストに従うなら、生涯キリストに仕えることができます。天において、その報いは非常に大きいことでしょう。しかも、その報いは永遠に続くのです。何と幸いなことでしょうか。
「今は恵みの時、今は救いの日です」(コリント人への手紙第二・六章二節)とあるように、今こうして生かされているうちにキリストに従うことが、人生における最も幸いな選択なのです。
5.信仰生活について
「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(コリント人への手紙第二・五章一五節)
イエス・キリストを救い主として信じ受け入れたら、実際にクリスチャンとして歩み出す必要があります。その第一歩となるのが「バプテスマ」(洗礼)です。バプテスマは、キリストが弟子たちにお与えになった命令の一つです。「罪に生きていた古い自分に対して死に、キリストのよみがえりのいのちにあずかること」を、バプテスマという儀式――全身を水に浸し、水から上がる儀式――をとおして表現するのです(ローマ人への手紙六章参照)。
「人は、バプテスマを受けることによって救われる」と誤解しておられる方もいるようです。しかし、バプテスマという儀式には、人を救う力はまったくありません。人が救われるのは、「罪を悔い改め、心の中でキリストを信じること」によってのみです。キリストを信じてもいないのにバプテスマを受けても、そのようなバプテスマには何の意味もありません。バプテスマは、きちんとした信仰告白に基づいてなされるべきものなのです。
では、特別な効力もないのに、なぜバプテスマを受ける必要があるのでしょうか。それは、クリスチャンとして歩む決意を、周囲の人々に対して、きちんと表明するためです。すなわち、信仰告白を具体的な行動で表すためです。神は、キリストを信じて救われた人が、それを明らかにすることを望んでおられます(マタイの福音書一〇章三二節参照)。キリストを信じたと言っているにもかかわらず、バプテスマを受けようとしないなら、そのような信仰は、かなり疑わしいと言えるでしょう(もちろん、特段の事情、たとえば健康上の理由などがある場合は別です)。ある人の信仰が本物かどうかは、その行いによって判断されるのです。
バプテスマを受けたら、その次は、クリスチャンとして実際に歩んでいくために、それぞれの地域にあるキリスト集会(教会)に属することになります。どの集会に属するかということについては、聖書に明確な規定はありませんが、通常は、求道中に集っていた集会に属することがほとんどです。また、バプテスマもその集会で受けることが多いのです。健康上の理由で外出できないなど、特別の理由のないかぎり、聖書は、個人で信仰を守ることを認めてはいません。「いずれかの集会の一員として信仰生活を送るように」と教えています(ヘブル人への手紙一〇章二五節参照)。
クリスチャンが集会に集わなければならない理由はいくつかあります。まず、個人で信仰生活を送ることがたいへんむずかしいからです。私たちの周りには、神を信じていない人たちがあふれています。そのような中で生活していると、周囲から影響を受けることが多く、信仰はどうしても弱くなっていきます。ところが、集会に出席すると、そこには同じ信仰を持ったクリスチャンたちがいます。クリスチャン同士は、同じ神を霊的な父に持つ兄弟姉妹です。そのような霊的な身内とも言えるクリスチャンたちと交わることによって、互いに励まし合い、信仰を支え合っていくことができるのです。
また、クリスチャン一人ひとりは「からだの各器官」です(コリント人への手紙第一・一二章二七節参照)。ですから、どんなクリスチャンにも、自分の属している集会で果たすべき役割というものがあります。その役割は人それぞれ違います。からだにはいろいろな器官があって、それぞれの器官の働きが違うのと同様です。目立つ働きもあれば、人目にまったくつかない働きもあります。けれども、いかなる働きであっても、神の目には非常に尊いものです。ですから、器官としての役割を果たすためにも、いずれかの集会に属して、そこにきちんと集うことが大切なのです。
では、集会にきちんと出席していればそれで良いかというと、決してそうではありません。集会に出席するだけでなく、個人的にも聖書をよく読み、よく祈る必要があります。聖書を読むことは神の御声を聞くことであり、祈ることは神に語りかけることです。これは、目に見えない神と交わる唯一の手段です。それをきちんと実践することができれば、信仰は間違いなく守られます。
信仰生活とは、神と交わる生活です。人間は、神と交わることのできる唯一の存在です。キリストを信じることによって罪の問題を解決した人は、人間の本来の姿に戻ることができます。自分中心の生き方をやめて、神中心の生き方をするようになります。自分中心の生き方をしていると、不安やむなしさが必ず付きまといますが、神中心の生き方をすれば、決してそのようなことはありません。自分が本来いるべき場所、すなわち、神のみもとにいるという確信を持つことができるからです。また、どのような苦しいとき、悲しいときにも、神がともにいて、自分を慰め励ましてくださるということも経験できます。そして、死後のことを心配する必要もなくなるのです。
このようなすばらしいクリスチャン生活を、ひとりでも多くの方が送ることができるようになることを願ってやみません。この本をお読みになった方々お一人おひとりの上に、主の豊かな恵みと導きがありますよう、お祈り申し上げます。
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